母の寝顔は、楽しい子供の頃の顔に戻っていた。10年7月1日
昨日の母は部屋を歩き出しそうなくらい元気だった。母の持ち物は殆ど捨ててあるので、それを見て「どうして捨てたの」と怒るのでは、と慌てたくらいだ。
ベットの背中を持ち上げると、外が見えると喜んでいた。それから母は久留米での子供の頃の思い出を話した。元気な様子に安堵し「夕飯を食べるか」と聞くとうなづいた。
急いで、有り合わせの材料で鳥雑炊を作った。トロトロに煮込んであるので誤嚥はしにくい。それでも慎重にスプーン半分ずつ母の口に運んだ。
食べた量はサカズキ一杯ほどだが、最近まったく飲み食いしていないので嬉しかった。しかし、食後の飲み物を用意していると、母の様子が急変した。雑炊を気管へ入れたのではと心配したが、呼吸の出入りはある。念のため、吸引チューブを気管まで深く入れて吸引した。いつもの粘液だけで異常なものはない。しかし、ただならぬ異常な衰弱を感じる。心音は乱れ終末期の気配だ。
このまま逝かせたら、食事をさせたからと生涯悩むことになる。元気にさせようと、ベットの角度を変え、励ましたり、揺らしたりしたが呼吸は弱まり続けて止まってしまった。急いでベットに乗り「声を出せ」と胸を押さえた。母は「あー」と声を出しながら息を吐き、そして吸った。しかし、人工呼吸を止めるとすぐに呼吸は弱くなった。
人工呼吸を繰り返して4時間ほど過ぎた11時、母はやっと自発呼吸始め、声をかけると、かすかにうなづくまでに安定した。
安堵して、午前1時に就寝した。午前3時に様子を見に行くと、鼻呼吸がなく、装着した酸素吸入の効果がない。すぐに口にさし替えて、一旦寝た。午前5時起床。母の意識はなく、呼びかけには答えなかった。
7月1日
午前9時30分、ヘルパーのOさんが来た。共同して母の洗髪をした。新しい寝間着に着替えさせている間も母の意識は戻らなかった。
午後1時、生協浮間診療所から若い医師が往診に来た。頼んでいた酸素マスクを装着すると、酸素飽和度が70から一気に90へ回復した。しかし、一昨日の血液検査の結果は心不全の悪化を示していた。
昨日、母が元気だったのは気分が高揚していただけかもしれない。高揚した気分でご飯を食べてみたが、身体は受け入れる能力がなく急変したのだろう。
水分を摂ると心肺が浮腫み更に衰弱する。
医師は今日の点滴は休みますと言って帰って行った。終末期では医師は苦しみを取るくらいしかできない。チューブだらけにして命を長らえさせても、苦しみを長引かせるだけだ。
午後2時、母をお隣の吉田さんに頼んで、買い物へ出た。
1写真。東京北社会保険病院下の公園。
母がいないので寂しい公園に見えた。
知人に会い母の危篤を話すのが辛い。今日も帰りは、人通りのない師団坂を登り東京北社会保険病院を抜けた。
2写真。
ノウゼンカズラ。
3写真。
東京北社会保険病院庭のヤマモモ。
地面を覆うほど熟した実が落ちている。今年のヤマモモはいつになく甘い。買い物袋に1リットルほど摘んで、留守番を頼んである吉田さんへお土産にした。塩水に漬けて食べると更に美味くなる。
母に大きな声をかけると小さくうなづいた。耳は聞こえているが、答える力がない。
うなづく力もない時はまぶたを動かす。母が衰弱してから、小さな表情の変化で気持ちが分かるようになった。
吉田さんが帰った後、何度もタンを吸引した。心臓の拍動は乱れ弱々しい。いよいよ別れかと覚悟すると涙があふれ、畳にポタポタと落ちた。
タン吸引はとても苦しい。呼吸音に乱れがあっても、何もせずに静かに見守るだけにした。
「十分に頑張った。もう、ゆっくり休みな」
母の手を握り、髪を撫でながら声をかけると、母の顔が優しく変化した。
呼吸は次第に弱くなって停止した。
すぐに母の胸に耳をあてて心音を聞いた。
6時30分、呼吸停止から30秒後に心音が消えた。
たちまちに顔から血の気が失せ、手足と口の回りから生気が消えて行った。
半身をもぎ取られたような、かって経験したことがない強い喪失感に囚われた。
すぐに、生協浮間診療所へ電話を入れた。
電話に出た看護婦さんにどうしても母が死んだと言えない。
絶句していると「お亡くなりになりましたか」と聞かれ、絞り出すように「はい」と答えた。
15分ほどで昼間の医師と看護婦さんが駆けつけた。丁寧なお悔やみに受け答えするのがとても辛い。
6時55分、医師が死亡を確認した。
明日、献体するので、今夜中の死亡診断書作成を頼んだ。
哀しみが幾度も幾度もこみあげた。生涯、これ以上の哀しみは訪れないと思った。哀しみを振り払うように台所や部屋を片付け続けた。新橋の店で働いている姉には、店が終わるまで伝えないことにした。それは母から頼まれていた約束だった。
お隣の吉田さんに母の死を伝えると、ご夫婦で大きな白百合の花束を持って訪れ、何くれとなく手伝ってもらえた。
写真4。
吉田さんと身体を清拭して、口が開かないように包帯を巻き、死化粧をした。
「どう、7月1日に死んでみせたでしょう」
母は威張っているように見えた。飲み食いから排泄まで、人手に頼る完全な寝たっきりは7日間。危篤になってからも2日。やつれていないのが救いだ。これは伝統的な死の姿だ。病院に入れていたら、骨と皮になるまで無理に生かせ続けただろう。
祖母は5月1日。父は6月1日。母は7月1日。どの命日も覚えやすい。
大正2年8月24日生まれ、享年96歳と10ヶ月。波瀾万丈の生涯だった。
今夜は姉と二人だけの通夜。明日、お昼に母は日本医科大に献体する。その頃、博多の兄は菩提寺で母の法要をしている。
明日から、洗濯物が減りそうだ。
買い物で、母の好きなものに目が行くクセはしばらく抜けそうにない。
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