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2010年7月10日 (土)

生前、母は宝くじを当ててあげると約束した。それは本当だった。10年7月10日

9日
母には年金も、財産と言えるものも何もなかった。
それでも、独り身で貧乏しながら介護し続ける私が、母は可哀想でならなかったようだ。
「あの世に行ったら、正喜を必ず幸せにしてあげる。
いつも守ってあげるから信じてね」
毎日の散歩の時、車椅子を押す私にそんなことを話した。
「それなら、死んだらすぐに宝くじを買うから、当たりにして」
漠然とした幸せではなく、すぐに役立ちそうなことを母に頼んだ。
「宝くじなら当てられるかもしれない。
幽霊になって、抽選の矢を買った番号にグイッと当ててあげる」
母は嬉しそうに応えた。

母が死に、後片付けに忙殺されている内に、初七日はあっという間に過ぎた。
イトーヨーカ堂へ買い物へ行く途中、ふと赤羽駅前の宝くじ売り場が目にとまった。母の約束を思い出し、スピードクジを1000円分買った。通常は2000円10枚を買う人が多く、売り場の係は10枚束から上下を選べと言った。私は上5枚を選んだ。

Takara_2結果は5枚中、300円1枚、100円2枚、計3枚の大当たりだった。

額の多い少ないではない。経緯を見れば分かるように、上を選んだ5枚中3枚の当たりは希な確率だ。母は約束を守っていると思った。

イトーヨーカ堂で買い物を済ませ、帰り道、更にサマージャンボ7枚を買った。こちらはおまけで、当たらなくても良い気分だった。

「必ず、幸せにしてあげる。」と約束した母の言葉が信じられ、とても嬉しかった。
3億円でも本物の幸せは買えない。穏やかで静かな人生を終えるなら、それ以上の幸せはない。母はそんな本物の幸せを約束してくれたような気がした。

Haha3年前、元気だったころの94歳母。笑顔が良いので遺影に使っている。

帰宅して、仏壇の遺影に報告すると、母の笑顔が一層嬉しそうに見えた。

当たり券は換金はしないで、大切にしまっておくことにした。


10日
雨の予報は外れ、朝から好天で奥秩父の山塊がよく見えた。
朝7時前から、布団のシーツと枕カバーを洗濯した。枕中身のプラスチック緩衝剤も洗って竹ザルに広げて干した。日射しは強く、強めに糊付したシーツは1時間で乾いた。更に、タオルケットにバスタオルに座布団カバーまで、汚れていそうなのを次々と探し出しては洗濯した。それらは直ぐに乾き、お昼までに5回洗濯ができた。

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午前中、絵を売ってもらっている会社社長のMさんからメールが入った。購入したお客さんが次々と銀行口座へ振り込んでいるから確認するように、とあった。

洗濯の合間に出かけて、北赤羽駅前のATMで通帳に記入すると、一桁間違えたくらいの額が振り込まれていた。以前なら銀行振込各種料金ギリギリの残高で、その僅かな額すら四苦八苦して金策に走り回っていた。これも、母の約束の一つかもしれない。

帰り道、浮間橋から新河岸川上流を撮った。
生前、生協浮間診療所への行き帰りには必ず立ち止まり、母にこの風景を見せた。
欄干の隙間から嬉しそうに眺めている母の姿が想い浮び、熱い歩道に涙が流れ落ちた。私は静かな川面に「ありがとう」と、小さく声をかけた。

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先日、大宮の浜田さんから電話があった。
彼が弔問に来た時、秋口には気持ちの整理ができているので、鎌倉へ行って地元の絵描き仲間のSさんに案内させよう、と話していた。
Sさんは私の介護生活をいつも気にかけていた。それで、母の死の報告も兼ねて、彼は彼女に電話を入れたようだ。

「Sさんは大変なことになっている」
彼は困惑しながら言った。
「まさか、死んでしまったんじゃ・・・」
私が冗談めかして言うと、そのまさかだった。
彼女はまだ死んではいないが、末期ガンで生死を彷徨っていると彼は話した。

病院で延命措置をしているが、夏は越せない状態のようだ。電話に出たご主人は途方に暮れていた。彼は見舞いに行くからと病院を聞いたが彼女は受け入れられる状態ではなく、聞けないまま電話は終わった。

彼女のご主人は私と違い、大手印刷会社を定年まで勤め上げ生活に不自由はない。しかし、世話好きのSさんのおかげで家事は一切出来ない夫だった。Sさん夫妻には一人娘がいるが、親子関係は複雑なようだ。グリーフケアでは、妻を亡くした夫の悲歎指数は頭抜けて高い。病室で一人死と向き合っているSさんと、残されるご主人の心情を思うと切なくなった。

「人のことは言ってられないな。オレたちも何時何が起きてもおかしくない歳だ」
Sさん夫妻に同情しながら、彼とそんなことを話した。

4月30日の絵描き仲間宮トオル氏の死と言い、近辺に訃報と重病が行き交う年齢に入ってしまった。それを思うと、グズグスはしていられない。グリーフケアの統計では母親を亡くした息子が立ち直る期間は平均2年。私の年齢ではその2年も残されていないかもしれないない。

統計より早く立ち直って、母がくれた幸運を大切に、残された年月を悔いのないものにしなければと思った。


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