お盆の入り。母の魂は旅立たず私の周辺に留まっているようだ。10年7月13日
母の死後、様々な始末に忙殺されている。
今日はのどが痛い。昨夜、窓を開けて寝ていて、夜風が涼し過ぎて夏風邪を引いたようだ。風邪は冬だけしか引いたことはない。自分で気がついていないだけで疲労は溜まっていたようだ。
誰にも母の死を知らせなかったが、噂で広まっていた。死後半月近くたっても毎日弔問客が訪れる。皆、気が置けない人ばかりなので、その場で香典返しの扇子を渡している。
その扇子が残り少なくなり、葛根湯を飲んで銀座8丁目の老舗扇子屋へ出かけた。生前母は、抹香臭いお返しではなく、はんなりとした粋な扇子をお返しにと希望していた。扇子なら小さくて軽く、貰った方も邪魔にならない。
扇子は多めに買った。
午後5時。ゆっくり銀ブラができる時間だが、母が心配で急いで帰る習性がぬけない。
和光前の交差点を急ぎ足で渡っていると、突然呼び止められた。昔、世話になった出版社嘱託のHさんだ。
彼女はいつも母のことを心配していた。
「お母さんはお元気」
いつもと同じ第一声だった。彼女は最近、老親の介護を始めたので他人事に思えないようだ。
悲しみに絶句しながら、母の死を伝えた。
彼女の顔はみるみる曇った。
経緯を話そうと近くの喫茶店に入った。
しかし、悲しみは押さえきれず、言葉は度々中断した。
今日も、何かのきっかけで悲しくなるだろうと思っていたのに、ハンカチもティッシュも忘れて出かけた。それで、扇子屋の前に、ハンカチを買おうとデパートに寄った。
1階の女性用ハンカチ売り場で聞くと、紳士用は4階だと言う。風邪気味で上に上がるのは億劫で、その売り場にあったピンクのハート模様のタオルハンカチを買った。
Hさんに母の死の経緯を話しながら、あふれる涙をハート模様のハンカチでぬぐった。女性を前に、いい年をした爺さんがハート模様のハンカチで涙を拭っている姿は、他人が見たらオカマの愁嘆場みたいで、おかしな光景だっただろう。
そのように、いつも悲歎にくれているように思われるが実際は違う。大部分の時間はいつもと変わらず、人と会えば冗談も言い、仕事もいつも通りこなす。昨日は古典落語の「そこつ長屋」を聞いて大笑いしていた。しかし、母のことを思い出すと、間歇泉のように悲しみがこみ上げ絶句してしまう。
グリーフケアによると、この悲しみは必ず通り過ぎなければならない過程のようだ。もし、悲しみが伴わなかったとすると、心の奥底に鬱積して一生引きずることになる。しかし、素直に嘆いていれば、時間とともに悲しみは薄れ、良い思い出だけが残ってくれる。こればかりは近道はなく、一定期間は素直に悲歎にくれる他ないようだ。
彼女とは30分ほど話して、別れ際に買ったばかりの扇子を母からだと渡した。
有楽町駅へ向かっていると、雑踏の中から鈴の音が聞こえた。母が杖に下げていた鈴の音にとても似ている。惹かれるように雑踏をかき分けて行くと、街角で雲水が鈴を鳴らしながら読経していた。私は反射的にポケットをさぐって札を2枚取り出し雲水の鉢へ入れた。
その時、雲水が笑顔になったような気がした。
「二千円入れたつもりだけど、万札だったのかな」
心配になって、ポケットを調べてみると万札は残っていた。
そもそも、雲水が本物だったかどうか分からないことだ。しかし、先程のHさんとの偶然の出会いと言い、どれも母が導いてくれた大切なことに思えた。
先日の宝くじだけでなく、最近、不思議なことが次々と起こる。住まいのエレベータを降りようとすると、いつもエレベーターが待っている。母が先回りしてボタンを押していてくれていると思っている。
お盆に入ったが、まだ母の魂は旅立たずに、十万億土からやって来た父姉兄たちの霊と一緒に私の周りに留まっているのかもしれない。
有楽町駅から新橋へ出た。
姉が働いている烏森神社近くの店に寄って、お返しの扇子を分け少し雑談して帰った。
姉に伝えたいことがあったのにどうしても思い出せなかった。
帰宅して夕食を作っていると、ふいに、冷凍庫の食べ物を持って帰るようにと伝え忘れたのに気づいた。忘れないうちに、すぐに姉に電話を入れると、私が帰った後、予約が次々と入って満席になったと声を弾ませていた。その幸運も母が起こしてくれたことかもしれない。
昨日の夕景色。
料理をする意欲が薄れた。食べさせる母がいなくなったからだけではない。今まで、食べ物は母主体に考えていた。だから、いざ自分が食べたいものを考えても思い浮かばない。
8年間の介護生活で身に付いた習慣は他にもある。
野菜は微塵に刻んでしっかり熱を加えてしまう。母の咀嚼力が弱ったことと誤嚥を避けるためだ。刺身は食中毒予防に熱湯をくぐらせてしまう。五穀米は柔らかめに炊く。おかげで、母は死ぬまで一度も風邪を引かなかった。
夜の電話は着信ベルを1回以上鳴らさずに素早く取る習慣が身についた。同時に母の部屋の子機も鳴るので、母を起こさないためだった。
新橋駅で降りて姉の店へ行く前、ユリカモメの乗り場を見上げた。
その時、母をお台場に連れて行けなかったことを思い出した。
母が元気だった頃、車椅子を電車に乗せて銀座へ連れて行ったことがある。母は大変喜んで、今度はお台場へ連れて行ってくれと頼んだ。
戦前、母はお台場で海水浴を楽しんでいた。今頃の雨の降る涼しい日に、お台場で泳いで肋膜炎を併発し、稲毛のサナトリウムで1年間療養して生還した。結核性の肋膜炎は、昔は死病だった。20代に入ったばかりの母は、これで自分の一生は終わりかと泣けて泣けて仕方がなかったと後年話した。しかし、体力があったようで、生還し、それから97歳まで長生きした。
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