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2010年7月15日 (木)

母の死後、残された私のグリーフケア-悲歎の後に安らぎがある。10年7月15日

私の部屋は仕事部屋を兼ねている。毎夜、道具や椅子を片付けて布団を敷くのが大変なので、母の部屋の手作りベットで寝てみた。しかし、母の部屋は環八に面していて騒音がうるさい。

再度、自分の部屋に戻った。しかし、母の部屋から聞こえる微かな環八の騒音を母の声と錯覚し、何度も目覚めてしまった。

母の死以来、身の回りの総てが母に繋がって辛い。
それで、どう対処したら良いかとグリーフケアの文献を再読した。

グリーフケアでは、死別した後の悲歎を3段階に分ける。

最初の急性期。
通常は1,2週間。個人差がありもっと長く続くケースもある。
症状--ショックで頭の中が真っ白になる。体の感覚が無くなり、喉が詰まったり、食欲が異常に増減する。
周囲の現実感がなくなり、死者が生きていると思い込む。
それはまったく異常なことではなく、精神医学では強いショックから心を守る正常な防御反応とされている。
この時期の人は葬儀の場で、涙一つ流さず、周囲からは気丈な人と誤解される。
また、葬儀の会席で異常な食欲を示し、哀悼の心がないと非難されたりする。

私に急性期はなかった。7年前、母に肝臓ガンが見つかった時から、いつ逝かれても仕方がないと覚悟していたからだろう。

次の中期。
故人のことが心に囚われて離れない時期。
数ヶ月から1年、もっと長く5年続いても異常ではない。
悲しくて辛い時期なのに、周辺からはもう悲しみは解決していると誤解され、「死んだ人のことは忘れて、早く正常な生活に戻りなさい」と励まされたりする。
励ましは症状を内にこもらせ、回復を遅らせるので厳禁。
この時期の正常さはうわべだけで、心の中は悲しくて寂しい。
励ますより、「つらかったね」と優しく慰め、存分に泣かせてあげるのが良い。
この時期に十分に泣き、辛い思いを人に語る人は早く回復する。
昔から、大泣きする人は早く回復し、泣かない人は悲しみを引きずると言われている。
周囲の無理解は死別者を二重に苦しめる。
その辺り、細心の配慮が必要な時期だ。

この時期、遺族は罪の意識にも苦しむ。
故人の死因は自分にあるとか、生前にもっと優しくしてあげれば良かったなどと自分を責める。
人によっては、故人を治療した病院を恨んだりする。

まさしく、私は中期のただ中にいる。
上記の殆どは覚悟し、対策にこのブログを書き始めたが、哀しみと苦しみと罪の意識に容赦なく囚われている。

グリーフケアでは以上の二つの時期を十分に体験しないと回復は不可能とされている。
一定量の悲しみや辛さを体験することで人間的に成長し、穏やかな回復期に入ることができる。

キリスト教が深く浸透した欧米では、信仰の助けで悲歎は少ないのではと誤解されている。しかし、欧米の統計では死別者の10〜15%が病的悲嘆に陥る。

信仰があっても一定期間の苦しみは避けられない。むしろ、神が与えた試練として苦しみを忌避せず、素直に受け入れるのが、真の意味での信仰心なのかもしれない。

最後の回復期。
悲しみを伴わずに、故人と過ごした日々を懐かしく楽しく思い返すことができる。
しかし、多少のセンチメンタルな部分は残る。

長い苦しみの後に安らぎが訪れる。生き残った者も死に逝く者も、それは万人に与えられた至福なのだろう。
母は終末期に苦しんだが、最後は安らかに旅立って行った。死別者はともすると故人の辛い部分に囚われて悩む。
そうではなかったことを確認する為に、安らかな死に顔を写真に撮っておくのは良いことだ。私も母の微笑むようなデスマスクを写真に撮り、その写真を時折眺めることで安らぎを得ている。

個人的なグリーフケアとして、泣いた回数をノートに記録している。以前、NHK「試してガッテン」で、体重の変化を記録するだけで痩せられると紹介していた。それにヒントを得た私の回復方法だ。
悲しくなった状況を書き、大中小の涙マークを入れる。そして、寝る前に涙マークの総計を出す。同時に笑いマークも記録している。1ヶ月したら、それを折れ線グラフにしてみようと思っている。


Kaeri


写真は今日の帰り道。御諏訪神社の急坂を下り、右は浮間橋へ向かう道。私の帰り道は写真の蕎麦屋手前を左折。緑深く静かで母が好きな帰り道だった。母に散歩をさせているころは、このような夕暮れに歩くことは滅多になかった。

今日は午前中から午後2時まで、弔問客や仕事の来客が続いた。来客の相手をしている間は平気だったが、来客がいなくなったら寂しさが募った。

先日、窓を開けたまま寝て寝冷えをし熱っぽい。しかし、冷蔵庫が空なので買い物へ出た。
途中、処方薬局に寄って母の死を伝えた。頻繁に来ていたのに姿が見えなくなり、薬局を変えたと思われたくなかったからだ。

その後、東京北社会保険病院下の公園で少し休んだ。赤羽はくまなく、母の車椅子散歩をさせていたので、どんなコースを歩いても母のことが蘇る。一番辛いのは、母が可愛がっていたイヌやネコに会った時だ。昨日、大型犬の小次郎君に会ったら私に戯れて来た。同じように母に飛びかかっていたのを思い出して悲しみがどどっとこみ上げた。ペットたちは邪気がないだけに、辛さが倍加する。

昨日からお盆。集合住宅なので迎え火も送り火も焚けない。
ここに引っ越して来る前、一軒家のときは庭で焚いていた。上京した昭和38年から10年くらいは、東京でも玄関前の道路で迎え火を焚く家が多かった。その頃は、迎え火送り火と子供たちの花火はお盆の風物詩だったが、最近はとんと見かけない。

そんなことを思い出しながら、同時期のブログを辿って4年前7月16日に着いた。

・・・時折、雨が止むと強い日射しが照りつけ、濡れた地面から湿気が立ちこめていた。
赤羽自然観察公園の古民家で休んでいると、小母さんの一団がにぎやかにやって来た。
「昨日、かんかん照りの道を大きなカメが歩いていたよ。何て名だったけ、あの緑ガメの大きくなったやつ・・・」
話しの経緯から、私が助けた赤耳ガメのことのようだ。
昨日、公園からの帰り道、亀池弁財天近くの舗道を大きな赤耳カメがノソノソ歩いていた。可哀想なので、捕まえ亀池に放った。
「カメを助けたから、乙姫様がお礼に訪ねて来てくれるよ」
車椅子の母が言った。
「乙姫様より、若い侍女の方がいいよ」
乙姫様はいい女だけど、お嬢様で家事は一切しそうにない。母の介護だけでも手一杯なのに、それ以上は嫌だ。そうは言ったが、鯛や蛸の侍女では鱗やイボが気持ち悪い。それならわがままでも乙姫様の方が良さそうだ・・・

・・・桜並木辺りで、晴れ間が広がり強い日射しが照りつけた。
母の白い帽子に、舞っていてた精霊トンボがスーッととまった。オレンジ色がかった地味なトンボで、郷里の南九州ではお盆の頃に大発生する。地元ではそのトンボに乗って精霊がやってくると信じられていて、子供たちは捕まえなかった。
「精霊トンボがとまっている」
教えると母は帽子を動かさないように気を付けた。私たちは精霊トンボと一緒に環八の信号を渡り、住まいのエレベーターに乗った。
13階に着くと、精霊トンボは明るい空へ飛び去って行った。
「トンボに乗って来たのは誰だろう。甚平さんがどんな家に住んでいるか見に来たのかもしれないね」
母は大好きだった曾祖父のことを話した・・・

今、母が元気だったころのブログを読むのはとても辛い。しかし、回復期に入れば懐かしく読み返すことができるだろう。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

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