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2010年7月17日 (土)

ブログを過去へ読み返すうちに、母への罪の意識が消え、回復期の曙光がほのかに見えた。10年7月17日

16日
昼食後、生協浮間診療所へ母の治療費の支払いに行った。途中、診療所の若い医師、大石さんに会った。関連の診療所への移動の途中らしい。母の最後の頃、彼女に往診してもらっていた。
「お疲れでしょう。ほんとうに、たいへんでしたね。」
彼女は手を取ってねぎらってくれた。優しくされると、ぐぐっと哀しみがこみ上げてしまう。応えられず黙っていると、彼女は分かっていますと何度もうなづいた。

今日は平静に対応しようと思っていたのに、これでは先が思いやられる。案の定、診療所に着くと、看護婦さんたちに次々とねぎらわれ、辛くなった。

支払いを済ますと早々に立ち去った。帰りは赤羽駅に回り、食べ物を買い込んで帰った。母の車椅子を押している頃はハンドルに買い物袋を下げられるので、10キロほどの買い物でも平気だった。しかし今は両手に下げた買い物袋がズシリと重い。

House写真は路傍のホウセンカ。

帰り道、ホウセンカが咲いているのを見つけた。
「ホウセンカが咲いたら摘んでね。」
母が咲くのを待っていたことを思い出した。
母は毎年、ホウセンカで小指の爪を染めるのを楽しみにしていた。
花弁を明礬で練って爪に塗り、乾かないようにラップで包み1晩おくと、綺麗なオレンジ色に染まる。韓国の風習だが、母の育った久留米にもホウセンカと一緒に風習が伝わっていた。母は祖父甚平から染め方を教わり、毎年、小指の爪を染めていた。

母が最後に散歩に出た6月20日には、ホウセンカは咲いていなかった。
それからすぐに母は寝たっきりになり、10日後に旅立った。
前半の意識がしっかりしていた頃はホウセンカの咲き始めで、探せば見つけることができた。しかし、介護のことで頭が一杯で、気が回らなかった。
路傍のホウセンカを見ながら、小指を染めて旅立たせてあげれば良かったと哀しみがこみ上げた。

テレビは殆ど見なくなった。母が死んだら深夜放送の映画を見ようと思っていたが、どうしてもその気になれない。
テレビは見ないが、先日、500円DVDのロシアの戦争映画を2本買った。ロシアの戦争ものは、スペクタルではなく戦争に翻弄される人間ドラマを丹念に描いたものが多い。今まで、戦死者達に死別の苦しみを味わっている家族がいることを見過していた。それに気づいたのも母の死の影響だ。


17日、気象庁は梅雨明け宣言をした。
玄関を出ると、爽やかな夏空が広がっていた。何を見ても、母の記憶に繋がる。こんな晴れた夏日は、霧吹きを持って母の車椅子を押した。時折、帽子や衣服を霧吹きで湿らすと「涼しい。」と母は喜んでいた。

Kumo_2

母は蝉の声を聞く前に逝ってしまった。時間は私の中で、7月1日から止まったままだ。しかし、月日は容赦なく過ぎて行き、先日の夕暮れには下の遊歩道でカナカナが鳴いていた。

母の介護について後悔ばかりしている。寝たっきりにならないように、母に厳しい要求をしたこと。疲れてゆとりを失い、優しく話しかけられなかったこと。思い出すと辛くなる。
本当はどうだったのか、昨夜はブログの母に関する部分を1年前から一気に読み返した。それで分かったのは、少なくとも寝たっきりになってからの10日間は、母には優しく接していたことだった。

「本当にありがとう。苦労ばっかりかけてごめんね。」
意識が混濁する前、母は何度も感謝の言葉を残していた。記述を読みながら、堅く凍り付いていた心が溶けて行くのを感じた。写真に撮っておいたデスマスクも優しい微笑みをたたえていて、最後は安らかだったと確信が持てた。

今、介護をしている人に、互いの会話を正確に記録しておくことを薦める。
私のように多くの死別者は、ともすると悪い記憶だけが頭を占め、根拠のない罪悪感に苦しむ。その時、交わした記録が助けてくれる。写真や動画も有効だ。殊に安らかなデスマスクは撮っておくべきだ。真実を知ることにより悲歎を長引かせず、早く回復期に移行できる。

朝、仏壇に飾ってあったショロゴザと供物を片付けた。ショロゴザとは精霊ゴザの訛ったもので、東京ではマコモゴザと呼んでいる。郷里では送り火の後、供物をゴザで包みマコモの縄でしっかりと包み海に流した。

片付けた後、香典を送ってくれた郷里大堂津のOさんに電話をした。彼女は私が4,5歳の頃、お隣にお嫁に来た。大変に可愛がってくれ、私の好物を今も覚えていて送ってくれる。

気持ちの整理ができた秋ころに大堂津を訪ねる、と彼女に伝えた。
「いつでも帰って来なれんか。一人暮らしやから、何日でも好きなだけ泊まってくだい。」
同じ宮崎県でも日南地方の言葉は東国原知事の話す宮崎弁とは別物だ。伸びやかで優しい日南訛りが懐かしく、受け入れてくれる郷里があると思うと気持ちが安らいだ。

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Goof

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