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2010年7月19日 (月)

人生には無数のつまずきがある。耐え信じる強さがあれば人生は豊かに変わる。10年7月19日

30年前に買った扇風機が、異常音をたてるようになった。10年以上使い続けた扇風機からの発火事故は多い。即刻、使うのを止め、新しい扇風機を買いに出た。

赤羽駅近くのビバホームで40センチの大型を買った。6900円と格安だ。台座が鋳鉄製で、下げて帰るには重い。それで折りたたみ式2輪キャリーを買った。ビールケース等を運ぶ二輪台車の簡易なものだ。後ろに引いて行けば楽だが、人にぶつけるので車椅子のように前に押して進んだ。何となく母の車椅子を押している感覚を思い出し、懐かしくなった。

東京北社会保険病院下の公園にて。母は木漏れ日が大好きだったので、キャリーを置いて撮った。

Komo

御諏訪神社前で信号待ちをしていると、「邪魔だ。」と、自転車の中年男がキャリーに言い放って過ぎた。邪魔なのは歩道を行くお前だろう、と言いかけて止めた。

母の生前は皆優しく、暴言を吐く者はいなかった。母を散歩へ連れ出せば、多くの人が話しかけ、ねぎらってくれた。母の死で、突然に世間が冷たくなったように感じた。
多くの死別者はこの現実に晒され、二重に喪失感を覚える。殊に、社会的地位の高い夫を亡くした妻は大きな落差に苦しむことになる。

弔問客が毎日訪ねて来る。母の仏前でしみじみと思い出を話す。
ようやく、静かに母の死を語れるようになった。しかし、来客を見送ると、一人のに寂しさに囚われてしまう。

Sky_2我が家から見えるスカイツリー。
一時は完成まで、母は生きていてくれると思っていた。

相変わらず過去のブログを読み、母の死を早めた原因を検証している。
赤羽自然観察公園へ行かなくなってから、確実に母は弱った。しかし、行くのを続けていれば元気であっただろうか。母が死んだ今、それを考えるのは無意味だ。

運命は精緻に編み上げられたレース模様のようなものだ。どこかで一目編み違えただけで、まったく違った模様を描くことになる。

3月半ば、私と母は住まいと生活を同時に失う寸前まで窮迫していた。
その頃、旧知のYさんが偶然に私のブログを読んで窮地を知った。心配したYさんは突然に来訪し、絵を買って窮地から救ってくれた。

Yさんが帰った後、ベットの母に絵が売れたと伝えると、気丈な母が声をあげて泣いた。その頃、母はいつもノー天気に明るく振る舞っていた。だがそれは本心ではなく、私を気遣っての振る舞いだった。

以後、Yさんの人脈で次々と絵が売れ、生活は劇的に好転した。仮に、赤羽自然観察公園行きを続けていたとすれば、時間の流れが変わり、Yさんがふいに私を思い出すことはなかった。運命はささやかな一瞬の違いで流れを大きく変える。母の健康を維持できたとしても、あのままなら私は病に倒れ、もっと悲惨な結末を迎えていた。

どのような選択をしても、97歳の母の衰弱を止めることは不可能だった。7月1日に死ななかったとしても、猛暑の盛りか疲れが出る秋に終末期を迎えていた。

8年前、母が車椅子生活に陥った時、私は介護プログラムを作った。それは母の体力ギリギリまで叱咤激励して寝たっきりを避け、最期は在宅で速やかに自然死することだった。毎日の車椅子散歩の時、計画を何百回となく話し合い、互いに強く決意した。そして母は限界まで頑張り、10日間の寝たっきりの後に自然死した。

母が耐えた苦しみを思うと辛くなる。しかし、医師に従って入院させれば母は家に帰りたいと訴えたはずだ。それには確信がある。2008年9月に個展をした時、ショートステイで母を近くの施設に預けた。そして毎朝、個展へ出かける前に施設に寄って母を車椅子散歩させた。

その二日目、母は激変していた。朝、会いに行くと個室の母は、カサカサに乾いた肌でベットに放心状態で寝ていた。車椅子で外に連れ出すと、「ここは寂しくて嫌だ。家に帰りたい。」母はポツリとつぶやいた。詳しく聞くと、1日自室に放っておかれ、食事も口に合わず殆ど食べていなかった。このままでは取り返しがつかないことになる。即刻、三日目に退所させる手続きをした。三日目からは母を自宅に置き、親しくしているヘルパーのOさんとSさんに自費で来てもらった。

僅か2日のショートスティで母は精神に異常をきたすほどの孤独を味わった。それ以降、母の深夜の幻覚に私は翻弄され、睡眠不足で体調を崩し始めた。

母はショートステイの個室より病院の大部屋の方が良いと話していた。今考えると、5月1日から私の胆嚢除去手術に伴い、母を同じ東京北社会保険病院に緊急措置として入院させたのは大きな原因ではなかった。その時は同じ病院に私がいて、孤独感はさほどなかったからだ。

母の死は、運命としか言いようがない。もし、夜間の付き添いを雇える程に私が豊かだったら、母は私に気を使う必要はなく、百歳まで長生きしたかもしれない。しかし、運命に"もし"はない。

母と私がどちらが幸せだったかと言えば、圧倒的に母だった。母の老後には私がいたが、私の老後に"私"に相当する者はいない。深夜に息子に叱られる母は哀れだが、睡眠不足で介護し続ける私の体調は危機的で、母は自身の生命維持装置である私を失いかねなかった。母はそのことを十分に知っていた。知っていたから、僅か10日間の寝たっきりの後、自分の意思で旅立って行った。

母は、私が手を取り髪に触れ、「もう、頑張らなくていい。ゆっくり休みな。」との呼びかけに応じるように死んだ。
母は、私が眠っている間、外出している間、洗濯や台所をしている間を死に時として選ばなかった。前日6月30日にも死にかけたが、食事をさせたからと私を悩ませないために、死ぬのを踏みとどまってくれた。今、母は私のために、自分の死に時をコントロールしてくれたと確信している。

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