献体の白菊会会員の母は、日医大へ運ばれて行った。10年7月3日
7月2日。
午前9時、献体に必要な火埋葬許可書を発行してもらいに王子の北区区役所へ出かけた。
戸籍課で死亡診断書を沿えて書類を提出したが、延々と待たされた。事前に20分もかからないと聞いたのにどうなっているのだろう。日医大から11時半に母の遺体を迎えに来るのに、間に合うか気が気ではない。
ようやく1時間後に許可書が出た。名前の正喜の"喜"が戸籍と違っていたと担当は説明した。戸籍の字は上から"士-口-十-口"だと言う。それが担当課内でもめて1時間もかかってしまったようだ。
私の名は、今の今まで"喜"だと思っていた。そんな変な字があるとは夢にも思っていない。多分、国学の素養があった祖父が「こんな字は誰も知らないだろう。」と自慢げに父の名に使い、父はそれを踏襲したようだ。変な教養主義で名付けられた私は大迷惑させられた。
11時10分前に帰宅した。同時に日医大から解剖学の助教授二人と契約葬儀社の二人が来た。助教授の先生たちから今後の予定を説明され、それから少し母の思い出話をした。母は長生きしたので、白菊会の集まりや投稿に30回近く参加していたので、先生たちとの思い出話しは尽きなかった。その後、予定より遅れて、みんなで母をストレッチャーに乗せて家を出た。
写真1。母は12時半に家を出た。
事前に管理事務所から借りておいたエレベーターの奥行きを広くするトランクルームの鍵が役立ち、ストレッチャーは問題なくエレベーターに乗った。
写真2。
姉は見送りの人達に笑顔で愛想を振りまいていた。
「晃子のバカが、またお愛想している」
車に積まれた母が笑っているような気がした。
知人たちが車を見送ってくれた。私は小さくなって行く車を、涙で曇るファインダーを覗きながらシャッターを押した。
手前の日傘は、見送りに来た大型犬の小次郎ちゃんとおかあさん。
献体の車消え行く夏木立
付き添いは規則で禁止されている。
2年後に町屋葬祭場で、母は荼毘に付される。
それまでは遺髪を仏壇に祭っておく。
写真3。
主が消えた介護ベット。
同じ母の子供でも、母の死に対する感情は温度差がある。
夜、九州の兄に献体のことを報告すると、戒名代はそちらで負担するように言われた。母は戒名など欲しがっていない、と言いかけて止めた。早速、金の話しかと寂しさが募った。兄は異父兄弟で、二人を繋いでいた母の死を契機に、関係が急速に薄れてくのを感じた。
その後、姪たちや九州の姉から電話が入った。姉は異母姉弟の関係だ。性格は優しく、継母である母にいつも気を使っていた。
「何かと物入りだろうから、少し送るよ」
姉は言ったが、彼女も身体を壊し入退院を繰り返してゆとりはない。おまけに頼りにしていた優しい80歳の夫が入院中だ。
「気持ちだけでうれしいよ」と言うと、
「あの人の病名が分からなくて、不安で不安でどうしよう」と涙声になった。
「もう70を越したんだから、心配事は子供たちに任せた方がいいよ」
甥が何とかしてくれると慰めると、姉は少し落ち着いた。
電話をもらって、またもや涙腺が緩み始めていた私だったが、逆に姉を慰めることになり、落ち込みがちな自分の気分が慰められた。哀しみにくれている者への最大の慰めは同情ではなく、もっと不幸な自分を話すことのようだ。
その後、姪たちからも次々と電話が入った。彼女たちは母が危ないことは知っていたが、死は知らせなかった。死はこのブログで知ったようだ。
「おじさん。ご飯はちゃんと食べている。直ぐ食べられるものを持って行こうか」
姪たちは皆同じことを心配していた。
そう言えば、見舞や弔問客の殆どが弁当や食べ物を沢山持って来た。母に逝かれて取り残された独り者男は、食べ物に不自由しているように見えるようだ。
疲労は限界を越えているのに、まったく眠くなかった。
深夜、仏壇に灯明をあげて手を合わせた。母の容態が悪くなってから、ヘルパーのOさんは百合の花を欠かさず持って来てくれた。おかげで仏壇に飾った百合の香りを嗅ぐと母を思い出してしまう。
午前1時、母の残した睡眠導入剤レンドルミンを1錠飲んで寝た。すぐに寝入ったが2時間後には目覚めた。このクセは当分抜けそうにない。
母の介護をしていた頃のように、その後も2,3時間おきに目覚めた。それでも総計6時間は寝た。最近は短い睡眠に慣れているので、それだけで十分だ。
3日
朝の気分は落ち着いていた。心配していた欝の気配はない。
朝食まで、部屋の片付けをした。大量の消臭剤が残っている。これから使いそうにないエアゾール式を処理した。
ベランダで水を張ったバケツに沈め、千枚通しで穴を開けると、水中でしばらく勢い良くガスを噴出していた。やがて、ブクブクと泡は消えた。はかなく泡が消えるさまが、息が止まる母の最期と重なり切なくなった。
午後はベットと車椅子の引き取りに来る。介護ベットと電動エアマットは1週間で不要になったので業者は大損だろう。酸素濃縮機も引き取りに来る。酸素濃縮機に必要な精製水を大量に買っておいたが、不要になったので中身を台所で流した。その前に飲んでみたが不味かった。後で知ったが、不純物を含まない蒸留水は胃壁の粘膜を損傷させるので、絶対に飲んではならないようだ。
朝食後、姉が来た。家に一人でいるとやりきれなくて、片付けに来たと言った。母の着物類の選択は姉でないと分からないので任せた。その間に生協浮間診療所へ吸引器返却に行った。看護婦さんにお悔やみを言われると、またもや哀しくなって言葉に詰まった。介護は女性主体の世界で、看護婦さんに女医さんに女性薬剤師。散歩道で車椅子の母に声をかけてくれる人も女性が多かった。母の死によって、その居心地が良い世界が一瞬で遠ざかったように感じた。
昨日、床屋さんへ行った。
「これからは一人言が増えそうです」
床屋さんに話すと、お客さんのおじいさんの話しになった。
彼は仕事に失敗し離婚して安アパートで一人暮らししている。彼は月に一度、散髪に来て床屋さんと会話するのを楽しみにしている。アパート住人は若者ばかりで、挨拶しても無視されるようだ。おかげで1ヶ月間誰とも会話しないことが多く、床屋さんとの第一声が出ないのではと心配しているそうだ。
身につまされる話しだった。それで、仏壇の母と話すことにした。外出から帰ると「ただいま」。寝る前は「お休みなさい」。昨夜は夜風が涼しかったので「涼しくて、気持ちいいね」と声をかけた。
午後、業者が酸素濃縮機と介護ベットを引き取りに来た。おかげで部屋がすっきりした。
古い手作りベットを元に戻し、寝ゴザを貼付けた。
作業が終わると同時にヘルパーのSさんが弔問に来た。姉と三人で母の思い出を話していると互いに寂しさが募った。
Sさんと姉を見送った後、大宮の浜田さんが弔問に来た。彼は28歳から両親の介護を始めて48歳まで続けた。だから、私と話しが合う。彼とは1時間ほどバカ話をした。彼を見送って、夕暮れに一人残されると気が滅入った。
写真4。
寝ゴザを張った古いベット。
夕食を食べ足りなかったので、ベットの上で冷や奴を食べた。
仏壇の母の写真が笑って見ていた。
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近況・・・
絵本「おじいちゃんのバス停」を完成させて、Amazon Kindleの電子図書 にてアップした。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0B79LKXVF
Kindle Unlimited 会員は0円で購読できる。
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絵本の内容
おじいちゃんのバス停・篠崎正喜・絵と文。老人と孫のファンタジックな交流を描いた絵本。
おじいちゃんは死別した妻と暮らした家に帰ろうとバス停へ出かけた。しかし、家は取り壊され、バス路線も廃止されていた。
この物語は、20年前に聞いた知人の父親の実話を基にしている。対象は全年代、子供から老人まで特定しない。物語を発想した時、50代の私には77歳の父親の心情を描けなかった。今、彼と同じ77歳。ようやく老いを描写できるようになった。
概要・・初めての夏休みを迎えた小学一年生と、軽度の認知症が始まったおじいちゃんとの間に起きた不思議な出来事。どんなに大切なものでも、いつかは終りをむかえる。終わりは新たな始まりでもある。おじいちゃんと山の動物たちとの、ほのぼのとした交流によって「終わること」「死ぬこと」の意味を少年は学んだ。
描き始めた20年前に母の介護を始めた・・このブログを書く8年前だ。
絵は彩色していたが、介護の合間に描くには画材の支度と後片付けに時間を取られた。それで途中から、鉛筆画に変えた。鉛筆画なら、介護の合間に気楽に描けた。さらに、水墨画に通じる味わいもあり、意外にもカラーページより読者に評価されている。それはモノクローム表示端末で正確に表現される利点がある。
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