子供心に母の苦労を知っていたから、介護が続けられた。10年7月30日
昨日昼まで、徹夜で日本生命倫理学会の学術誌表紙を描いていた。担当のOさんの希望で死んだ母のイメージを少し入れた。ひ弱な絵にならないように、暗くなりがちな気持ちを抑え、明るく力強い絵に仕上げた。絵は雨の中、文京区にある事務局へ届けた。
そのあと、神田神保町の出版社晶文社に回った。
新企画の打ち合わせを兼ね、社長のOさんたち4人と近くの日本料理店で飲んだ。途中から毎日新聞のKさんが加わった。彼女は小顔でグラマーでとても可愛い。しかも同郷の宮崎出身で話が合った。そんなのんびりした時間は4,5年ぶりで楽しかった。
先日、姪がリンゴジュースを送って来た。
21日ブログに、「母にリンゴジュースを飲ませていた。」「母が死ぬ前、深夜に様子を見に行くと、母は私を死んだ繁兄と間違え、とても嬉しそうな顔をした。」と書いたからだ。姪は死んだ繁兄の娘である。ブログを読んでリンゴジュースを送りたくなったようだ。
母が死ぬ前、私を繁兄と間違えた時の母の笑顔は今も強く心に残っている。あの笑顔は以前に見たことがある、と探していたら、2003年90歳の肝臓ガン手術日朝の写真がそれだった。
早朝、駒込病院の処置室へ行くと、
「あら、来てくれたの。」と、ベットの母はとても嬉しそうにした。
手術は執刀医が尻込みするするくらい難しかった。母の腹にはメッシュが入っている上、肝臓は深く肋骨の下に潜り込んでいた。その上、度重なる手術で癒着も多く、場合によっては手術中断も覚悟した。
最期の遺影になるかもしれない、と思いながらシャッターを押した。しかし、執刀医が小躍りして報告に来てくれたくらい手術は大成功だった。そして母は、それから7年も長生きした。
今日、北九州市に住む母違いの姉がウニと香典を送って来た。電話を入れると「私の体力が続く限り、ウニとお金を送ってあげる。」と姉は話した。最近、優しくされると涙もろくなって話せなくなる。言葉に詰まりながら「お金を沢山稼げるようになったら、小遣いをあげるよ。」と言って電話を切った。
夕暮れ、母が死んだ6時半になると、悲しくもないのに涙があふれた。この条件反射はしばらく続きそうだ。
今朝は9時まで寝ていた。介護時代のクセが抜けず、2時間おきに目覚める。睡眠は総計しても6時間に満たない。昼食後、池袋パルコの世界堂に画材を買いに出かけた。沢山画材を用意して、これからは思う存分絵を描くつもりだ。
上写真、大正12年、久留米時代の10歳の母。
母は一人で写真館へ出かけ、つけで撮ってもらった。母は芝居小屋も映画館も食堂もどこでもつけがきいた。代金は後で祖母が払って回っていたようだ。
中写真、昭和初期、久留米時代の18歳の母。
下写真、東京時代の20歳の母。
この頃、雨のお台場で水泳をして結核性の肋膜炎を起こし、稲毛のサナトリウムで1年間静養して生還した。当時、結核は死病だった。
私が母の介護を続けたのは、母の苦労を子供のころから知っていたからだ。
母が父と一緒になったころ、父は建設省下部組織で土木技師をしていた。
私が生まれた戦争末期は、大分県の山中女畑で食料増産のための灌漑事業を指揮していた。国策事業だったで、食料は一般より優先されていた。母が父と暮らし始めて、そのころが一番ゆったりとしていたようだ。しかし、終戦直後、父は上司と喧嘩して退官し、それから母の苦労が始まった。
私が小学生の頃、父は事業に失敗し、母はコロッケを作って行商して私たちを育てた。
当時「今日もコロッケ、明日もコロッケ。」の歌が流行っていた。学校で囃し立てられると、私も一緒になって唄った。純朴な土地柄でイジメの雰囲気は全くなかった。
私は行商を恥ずかしいとは思わなかったが、母の苦労はよく分かっていた。だから、大人になったら母を楽にさせてあげようといつも思っていた。
それから始まった戦後の復興期は土木技師の需要は多く、父は就職口には困らなかった。父は一時、大手ゼネコンに在籍したこともある。もし、辛抱強く定年まで全うしていたら母は遺族年金で楽な老後を迎えていたはずだ。しかし、母が苦労がない主婦をしていたら、在宅で私が介護することはなかった。多分、80歳代半ばに介護施設に預けていただろう。
結局父は、死ぬまで事業を興しては借金を作り、母は私たちが自立するまで生活を支え続けた。
母は私と生活するようになってから、編み物、人形作り、ビーズ細工、仏像作り、と思いつく限りの手芸に熱中した。母は、老いてからの余生が一生の中で一番楽しかったといつも話していた。
本心を言うと、肝臓がん手術後の体力低下は著しく2年の余命だと思っていた。加えて腰椎の圧迫骨折で車椅子生活になっていた。私は赤羽自然観察公園や荒川土手や、景色の良い場所をくまなく連れ回った。母は四季それぞれに美しい風景を眺め、沢山の人と知り合いになり、次第に元気になった。
私が車椅子を押した距離は8年間で2万キロをはるかに越す。母は車椅子になってから、思いがけなく人生を楽しむことができた。
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