最期に見せた母の涙の意味。10年7月8日
母のことは何でも分かっていると思っていたが、それは過信だった。
死が迫った頃、母は幾度か涙を浮かべた。母は私たちの前で嘆いたりしない気丈な人だった。それでも、迫り来る死に涙を浮かべて耐えているのかと、勝手に思った。
今、それは違っていた気がする。人の感覚で最期まで保たれるのは聴覚だ。視力は弱っていても、母は私の声に悲しみを感じ取っていたのだろう。だから、悲しむ私を残して逝くことが不憫で、涙を浮かべたのかもしれない。
そうであったとしても、母の死を前にして、私は平然とはしていられなかった。それが、繰り返される死別の普通の姿なのだろう。そう思うと更に切なくなる。
「いつもお母さまは、息子さんの仕事が巧く行けば良いのに、と話されていました」
弔問に来た、ヘルパーのSさんが話していた。仕事がなくて辛い時、母はいつも明るくノー天気で気楽だと思っていた。だから、私のことをいつも案じていたと聞いて意外な気がした。母は、私の悩みや苦しさを全部分かった上で明るく振る舞っていたようだ。
死の二日前にも涙を流した。その日の午後、様子を見に行くと母は天井を見上げたまま表情も変えずハラハラと二筋三筋涙を流した。私は黙ってタオルで涙を拭いた。涙はすぐに止まり、母はそのまま天井を見上げていた。
母は八十代半ばまで背筋はまっすぐで姿勢が良かった。しかしその後、少しずつ腰が曲がり、九十歳直前に激痛を訴えるようになった。診断では脊柱の骨が五個圧迫骨折していた。激痛は脊椎の硬膜外麻酔のペインクリニックで収まったが、それ以降母は車椅子生活になった。
腰が曲がってしまった母は長い間、仰向けに寝ることができなかった。
それが、死の三日前から背筋が伸びて仰向けに寝ることができるようになった。長身だった母の腰が伸びると老人向けの小さな介護ベットは窮屈になった。
腰が伸びれば圧迫骨折した箇所がバラバラに隙間が空いて、母は二度と立ち上がることも腰掛けることもできない。その時、母は生き甲斐だった車椅子散歩に二度と復帰できず、完全な寝たっきりに追い込まれたと悟ったのかもしれない。
その時、母の脳裏に過ったのは楽しい過去の思い出かもしれない。母が元気な頃、黒部、志賀高原、裏磐梯、奥秩父、八ヶ岳と各地へ連れて行った。母はその思い出を終末期まで楽しそうに話していた。涙はそのような楽しい思い出との決別の涙だったのでは、と仄かに思っている。
それから二日後の死まで、母は二度と涙を流さず、時には微笑みを見せて旅立って行った。
母の死の二ヶ月前に親しくしていた画家が急死した。彼が死ぬ前日、母と同じように天井を見つめたまま一筋ハラハラと涙を流したと未亡人に聞いた。その時、彼は母と同じように死を悟ったのだろう。
次に私が死ぬ時もきっと涙を流すと思っている。その時に友人や母の気持ちが本当に分かるのかもしれない。その答えは誰にも伝えられないが、多くの先人が辿ったのと同じ道を行く安堵感があると信じている。
終末期に入ってから、母の酸素不足の脳に幻覚が生じ、深夜、幾度も起こされた。
夜、床の中でオムツに小用をするのがいやで、母は苦労して起き上がりポータブルトイレに腰かけた。しかし、ベットに戻ることができず私を起こした。
両膝に人工関節が入っている母は、転ぶと関節が壊れ、取り返しのつかないことになる。加えて、1,2時間毎に起こされる夜が続き、睡眠不足は限界に達していた。それで、厳しく叱っては母と言い争いになった。
母は私を困らせようとは微塵も望んでいない。心肺機能が極度に下がり、酸素不足の脳が起こした不幸だった。冷静さを取り戻した今、母にもっと優しく接してあげれば良かったと後悔している。母は私が思っている以上に、迷惑をかけまいと頑張っていたのに、叱咤激励ばかりしていた自分が情けなくなる。介護はどんなに一生懸命やっても、悔いと寂しさを残すようだ。
もう一人のヘルパーのOさんから大きな白百合の花束が届いた。彼女は新潟出身の優しい人で、母を実母のように慕い、親身に世話をしてくれた。以前、自然公園で母と並んで撮った写真を宝物にしていると、いつも話していた。私の次に母の死を悲しんでいるのは彼女だろう。だから、母のいない我が家へ弔問に来ることができず、花を送って来たのだろう。
母の介護ベットが片付いた日、重い手作りベットを一人で持ち上げてバランスを壊して倒れてしまった。幸い、絵を描く手先は無事だったが、左肩をねじり、右胸を強く打った。
その後、左肩は50肩のように上げようとすると激痛が走る。シャツを脱ぐのも、頭を洗うのも左手が使えない。多分、筋肉の一本が傷んでいるのだろう。すぐに、母が残した消炎鎮痛剤フェルビナク入りステックを丹念に擦り込んだ。
整形外科へ行こうと思ったが、少しずつ治っているので止めた。整形に行くと、母の知り合いの患者が多く、母の様子を聞かれるのが辛い。
肩の痛みは、私が無理をしないように母が残したのかもしれない。実際、肩の痛みで休み休み動いているので疲労は少ない。
写真は手作りベットに寝ている私。
建物は環八を挟んで建っている公団。建物左手に、遠く建設中のスカイツリーが見える。
ここに引っ越す前、一軒家に住んでいた頃、近所で家を解体していたので柱や厚板を貰って来てこのベットを作った。角材をたっぷり使って床を組み、20ミリのベニヤを二重に張ったので頑丈だ。むしろ頑丈過ぎて壊すことが出来ず、捨てられずに今もここにある。
表面に寝ゴザを張ったら、和風の縁台に変身した。冬はこの上に炬燵をしつらえるつもりだ。
午後は池袋へ画材を買いに行った。画材屋で画材を探していると安らぐ。
絵描きに転身した43歳の時、野垂れ死に覚悟だった。と言っても、当時の私は稼ぎが良く、5,6年は遊んで暮らせた。金がなくなる頃に母の寿命も尽きるので、それから野垂れ死にすれば良いと思っていた。しかし母はそれから22年も長生きし、私は必死になって稼ぐことになった。
今、守るべき者はなく野垂れ死にできる自由を手にした。母との最期の約束、四国四十八カ所巡りを
済ませたら、本当に描きたかった売れない絵を描き続け、野垂れ死にしても良いと思っている。
池袋をぶらついて6時前に帰宅した。今日は随分のんびりできたと思っていたが、わずか2時間弱の外出だった。母を心配して、早く帰るクセはなかなか抜けない。
母がいない住まいは一人では広過ぎ、家賃12万5千円を払い続けるのも難しい。借りた当時は資金が潤沢で、加えて兄姉からの補助もあった。その兄姉たちは近年は老いて窮迫し、あてにならなくなっていた。それでも住み続けたのは、医療施設の多い環境にある。住まいから歩いて10分以内に大型病院から、各種専門病院が総て揃い、母の介護生活には最適だった。
一人になった今は、環境はどうでも良い。気持ちの整理ができたら、家賃の安い田舎住まいを考えようと思っている。しかし、思い出の多い赤羽は離れ難い。
まだ睡眠は十分に取れず、突発的に強い眠気が襲って来る。今日も昼間、手作りベットで10分ほど寝入った。その時、乾いた砂が砂時計のようにサラサラと落ちている夢を見た。乾いた砂には時の流れと死のイメージがある。子供の頃育った大堂津の墓地は海岸近くの乾いた砂地にあった。まだ、土葬の時代で、砂を掘ると古い人骨がでることがあった。持ち主の分からない骨は、墓地一角の大きな納骨堂にまとめて祭られた。以来、乾いた砂に死のイメージを持つようになった。
手作りベットを母は長年使っていた。乾いた砂の夢は、自分の死に囚われないで欲しいとの母の願いかもしれない。そう思うと安らぎを感じる。
深夜、ベランダからの冷たい風で目覚めた。この13階は猛暑の夜でも涼しい。
生前母が涼し過ぎると私を起こすことがあった。「暑いのに、何言ってるんだ」と文句を言ったが、同じ場所に寝てみて、始めて母が間違っていなかったと分かった。
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