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2010年8月26日 (木)

中国時代の母。10年8月26日

最近、アナログテレビの写りが悪くなった。地デジ移行への策略かもしれない。まだ、買い替える気はないが、池袋へ画材を買いに行ったついでにテレビ売り場を覗いてみた。

話題の3Dがあったので、専用メガネをかけて見てみた。
立体感はまだ不自然だ。芝居舞台の立て板に描いた立木や建物のように、つい立てを並べた感じだ。殊に遠景がダメで、芝居の書き割りのように、突然に壁が立ち上がっている感じ。それらを視覚で微調整しながら見ていたので画面酔いを感じ見るのを止めた。この水準では金があっても買う気は起きない。大脳生理学と連携して、もっと精緻に技術を突き詰めないと良いものはできそうにない。

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携帯プレイヤー売り場でiPod nanoを買った。理由は使っているMacとの相性が良いからだ。

ソニーのウオークマンは初代から機種変更の都度買っていた。
使わなくなったのはCDが普及し始めてからだ。更に母の介護が始まり、車椅子を押しながら母と話すので、外では音楽を聴かなくなった。その母が死に、独り散歩が増えたので、携帯プレイヤーを買う気になった。

iPod nanoは薄くて軽い。しかし、デザイン重視で使い勝手は悪い。付属のイアホーンは音の切れも抜けも悪い。試しに、10年前に買った上級品で聴いてみると、ボーカルの息継ぎまで自然に聞こえ、パソコン接続のBoseで聴いている音に近かった。イアホーンは別あつらえしたが良いようだ。

Goya昼はゴーヤを料理した。二つ割りすると猛暑のせいで種が熟していた。この赤い果肉は甘く、中国人は好んで食べる。私も喜んで食べた。

午後は母の遺品を整理した。散歩の時、いつもかぶっていた帽子を見ると悲しくなった。これは生涯引きずりそうだ。

写真を整理していると、20代前半の大連時代の母の写真が見つかった。雨のお台場で泳いで肋膜炎を起こし、稲毛のサナトリウムで1年療養した後だ。その所為かまだ少しやつれている。

健康を損なう前、母は横浜の競馬場へよく行っていた。今と違い、昭和初期の競馬掛け金は高額で庶民とはほど遠い世界だった。

Haha1_2その頃、競馬場で母は若い中国領事館員と知りあった。彼は中国の大財閥の息子で、日本との仕事のために滞在していた。山の手の邸宅で本国から連れて来た料理人や使用人と暮らし、遊びに行くと豪華な中華料理が振る舞われた、と母はよく話していた。

そのころ、母は彼から立派な名刺を貰った。名刺裏には「この人の便宜を最大限図るように。」と墨書されていた。彼は、中国のどこでもこの名刺を見せたら必ず生活は保証される、と言った。

稲毛での療養から生還して、母はまっすぐ久留米に帰った。祖母は相変わらず人の保証人になっては債務を負わされていた。そんな祖母が嫌になり、母は「銭湯へ行く。」と言って家を出た。
--母は広い銭湯が大好きで、私が小学生の頃、列車に乗って隣町の油津の銭湯へよく連れて行ってくれた。今の住まいに引っ越してからも、元気な頃は近所の銭湯へ行っていた。

母はその足で、洗面器にタオルだけで門司港へ行き大陸行きの船に乗った。母は燃え盛る槍のような性格だった。船上で冷静になって、まだ洗面器を抱えている自分が可笑しくなったようだ。セルドイドの洗面器は津島海峡に投げ捨てたと話していた。

母は本当は上海へ行きたかったのだが、手持ちの金が足りず大連で下船した。宿の中国人に彼から貰った名刺を見せると、すぐにゆかりの事務所に案内された。名刺の威力は絶大で、瀟洒な住まいと仕事をすぐに世話してもらえた。仕事は高級クラブの奥の席で、客の相手はせずに座っているだけで高給がもらえた。落ち着くとすぐに、祖母にしばらく帰らないと連絡した。

母は大連を拠点に、上海から満州のハルピンまで遊び回った。それは戦争前夜の短い平和な期間だった。母が帰国するきっかけになったのは、駐在日本人商社員との夜のドライブだった。当時の夜道には中国人ホームレスが沢山寝ていた。彼は面白がってハンドルを切っては彼らの足を弾いた。
「どうして、そんなひどいことをするの。」
母が怒ると、「中国人は犬と同じだ。」と、彼は平然としていた。
すでに、母は大陸での日本人の横暴さに嫌気がさしていた。直ぐに帰国を決意して、数日後には満州から朝鮮半島経由で帰った。その後すぐに日本は戦争の泥沼に入り込んで行った。


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