死後の世界や魂は、信じた方が楽に生きられるようだ。10年8月4日
昨日の買い物途中、床屋さんを覗くとお客さんはいなかった。髪は伸びていないが、何となく入った。今日は誰とも話していなかったからかもしれない。しかし、主人は外出中だ。留守番の奥さんでもかまわないが、主人はすぐに帰るので待つことにした。
待っている間、置いてあった週刊誌を開いた。高齢化社会にともない時代の要求なのか、数誌が「死生観」を取り上げていた。何処でどのように死にたいか、から、宗教的な死生観まで幅広い内容だった。
多くの人が延命措置なしで自宅での死を望み、ヨット単独世界一周の堀江兼一氏さえ自宅での死を望んでいた。彼なら海で死ぬのが本望だろう、と誤解されているが、畳の上で死にたいから世界一周は成功した、と彼は話していた。
記事によると、延命措置を惜しげもなくするのは日本特有の傾向だ。欧米では、口から飲食ができなくなったら点滴も心肺の浮腫みを招くので控える。そのように自然に任せるのが一番楽な死に方だからだ。そう言えば、母を往診した医師もそれと同じことを話し、最期は点滴を止めた。
すでに書いたが、死の前日、母は起き上がって歩き出しそうなくらい元気になった。
「何か食べる。」と聞くと母は嬉しそうにうなずいた。私は喜び勇んで鳥雑炊を作り、少しずつ食べさせた。母はさかずき一杯ほどを美味しそうに食べた。
「じゃあ、飲み物も。」と、乳酸飲料を用意して戻ると、母は意識が遠くなっていた。
誤嚥をさせたのではと慌てた。しかし、息の出入りは確保されている。後で思うと、食物を受け入れる体力がないのに食べさせたのが原因だった。
そのまま死なせては一生後悔する。「声を出せ。」と胸を強く押さえると母は「あー。」と声を出して応えてくれた。それでもすぐに呼吸が止まるので、タンを吸引して胸を押した。そのように人工呼吸を深夜1時まで続け、やっと母は自発呼吸を始めた。
母が死んだのは翌日7月1日。その日は喉元のタンを吸引するのに留めて自然に任せた。やがて、肩で息をする最期の状態になり、呼吸は弱くなった
「もう、頑張らなくて良い、ゆっくり休みな。」と手を握り髪を撫でていると、呼吸が止まり心音が消え、表情が優しくなった。
ドラマでは、逝くものと見送るもの間に「ありがとう。」と別れのやりとりがあって、最期は「うっ。」と死ぬ。週刊誌記事中の臨床医は、死の間際は意識がなくなり、そのようなやりとりは無理だと言っていた。
荒い呼吸については、昔、祖母、父の臨終の前、往診した家庭医は苦しそうに見えても体が反応しているだけで本人は苦しくはないと話していた。
自然死では、延命より苦しみが気になる。もし苦しみを感じていないとすれば救いだ。
しかし母の死に接して、家族がすぐ傍にいても人は一人で死んで行くものだと強く感じた。その厳しい孤独感を和らげるためにも、宗教的な死生観は必要かもしれない。
死生観について、聖書創世記第3章の失楽園は興味深い。
失楽園では、アダムとイブが蛇にそそのかされ、「善悪の知識の実」を食べてエデンの園を追われる、とある。それは、本能のままに悩むことなく生きていたアダムとイブが、人の知恵を身につけたことで、苦しみ悩み始める、と解釈できる。
そのように思い始めたのは、野良ネコを何度も看取ったからだ。彼らは静かに死を受け入れ、誰にも助けを求めず一匹で死んで行く。人も高度な頭脳を身につけるまでは、そのように静かに死んで行った。猿人の世界は、まさしくエデンの園だったようだ。
人は生き延びるために頭脳を発達させた。その結果、死の恐怖にさいなまれるようになった。そして、その矛盾を埋めるように宗教が発達した。記事中の宗教学者は、人が死後の世界や魂を信じるようになったのは自然な成り行きだと話していた。
死後の世界や魂を信じている者は、信じない者より幸せに死ぬ。インデアンは現世と死後の世界に隔たりを設けない。生きている現世は長い人生の一部にすぎないと考える。だから、「今日は死ぬのに良い日だ。」と、老人が草原に座り静かに死んで行くことができた。
今朝、いつものクセで早く目覚め、二度寝をした。二度寝の時、夢に母が出て来た。母はとても元気で明るく笑っていた。目覚めた後、とても気分が爽やかになっていた。宗教学者が言うように、死後の世界や魂は積極的に信じた方が良いのかもしれない。
最近、買い物帰りは写真の師団坂を登って東京北社会保険病院の庭を抜けて帰る。この道は夏は暑く冬は寒い。しかし、知人に会わないので気分が楽だ。坂上にはミッション系の星美学園がある。夏休み前は女子大生がゾロゾロ歩いていたが、今はひっそりしている。右は八幡神社への参道。
昨日、買い物用に銀色の保冷バックを買い、イカと野菜類を氷と一緒に入れ肩から下げた。
「どおしたの、そんなに大きなもの下げて。」
帰宅した時、母が笑いながら出迎えたような気がした。バックは実用的で缶ビールなら20本は入る。部屋奥の姿見に写った姿では、バックはかなり大きかった。
13階の住まいは地上より少し早く秋が訪れる。
涼風が吹き抜けるベランダで自分を撮った。
再生すると、ほんの少し元気が戻って来たように見えた。
秋にはもっと元気になっているだろう。
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