夕日の中、旧友が弔問に訪ねて来た。10年8月8日
昨夜は戸田の花火大会。
真ん中にマンションができてから眺望が半減し、この建物からの見物客は減った。
13年前、こちらへ引っ越して来たころは玄関前通路に浴衣の見物客が大勢集まった。玄関を開けっ放しで宴会をやっている家も多く、前を通ると飲んで行けと誘われた。子供や若者も多く長屋の祭りみたいで和気あいあいと楽しかった。元気一杯だった母が、玄関で焼き鳥屋を開けば儲かるだろうと、冗談を言っていたことを懐かしく思い出す。
花火見物はすぐに止め仕事へ戻った。遠い花火の音がどこか寂しく乾いて聞こえた。
今日は雲が多く、暑さはやわらいだ。
仏壇の花が枯れたので昼食後買い物へ出た。緑道公園で空を見上げると澄み切った青空が雲間にのぞいていた。ツクツクホーシが鳴いている。「もう、秋は近いな。」と独り言をつぶやきながら歩いた。
漢和辞典を買いに本屋に寄った。
7月2日、母の火埋葬許可書を区役所へ貰いに行った時、申請する私の名前の「喜」の字は俗字の「喜」が使われていたと知って、詳しく調べてみたかった。しかし、大きな辞書にもその字はなく、買うのを止めた。近くの旅コーナーにJR日南線編のDVDがあったので衝動買いした。
帰りは師団坂を上り東京北社会保険病院を抜けるのが定番になった。
日射しがなく暑さはやわらいでいる。星美学園のコンクリート壁下にムクゲが咲いていた。以前ブログに、郷里日南市大堂津の細田川土手にひっそりと咲いていたムクゲのことを書いた。
--子供たちは、ムクゲを葬式花と呼んでいた。大雑把な土地柄で曰く因縁の感覚はなく、単純に葬列に飾る手作りの紙の造花に似ていたからだろう。
ムクゲが咲いていた細田川は幅200メートル程。水は澄み河口近くではアサリが豊かに捕れた。以前、NHK「黒潮の少年たち」で、漁師を目指す大堂津の少年を取り上げていた。その時、少年の家族が細田川でバケツ一杯のアサリを捕り、大鍋で茹でて食べるシーンがあった。画面の大粒で臭みのないアサリがとても美味しそうだった。
細田川の上流に葦が茂る寂しい場所があった。ムクゲはその乾いた粘土質の土手に生えていた。満開の頃は殊に寂しく、子供たちは滅多に近づくことはなかった。子供たちは花に触れると不吉なことが起きると信じきっていた。
ある年の夏休み、土手で遊んでいると知らない復員兵に出会った。終戦間もない食料事情の悪かった頃だ。豊富な海産物を求めてこの辺りを流浪する者は多く、流れ者は珍しくなかった。しかし、ムクゲの花を一輪、軍帽に飾っていたのが目を惹いた。
「葬式花じゃ。さわると死ぬど。」
私たちは恐れおののいた。しかし彼は「綺麗な花じゃないか。」と、笑いながら去って行った。訛りのない都会言葉が印象に残った。戦争を生き抜いた彼は、清楚な花に安らぎを感じていたのかもしれない--
夕日の中、旧友が弔問に訪ねて来た。言葉を発する機会が激減しているので来客は嬉しい。
彼は去年末も訪ねて、ベット脇で母としばらく話していた。その時の母の嬉しそうな顔が今も眼裏に焼き付いている。
「逝ってしまったね。」
部屋に入りながら、彼はポツリとつぶやいた。思わず涙が落ちそうになり、「お茶を入れる。」と私は台所へ戻った。彼は去年の6月30日に母親をなくした。私の母より一つ上だったので享年は殆ど同じだった。
10時半、長居して帰る彼を埼京線北赤羽駅まで見送った。
「仕事で大きな成果を出すと母はとても喜んでくれて嬉しかった。でも、伝える相手が妻や子供だと母ほどの喜びがない。それがとても寂しい。」
暗い新河岸川の遊歩道を歩きながら彼が話した。
私も同じだと応えた。四六時中、母を思い出している訳ではないが、不意打ちを食らうように、母の笑顔が蘇る。仕事は遅滞なく進めている。しかし、泥濘に足を取られながら必死で進んでいる気分だ。彼は、その辛さから解放されるには時間がかかると言っていた。
改札口で別れ、深夜営業をしている駅前のライフに入り、豆腐とハムを買って帰った。
買って来たJR日南線のDVDを見た。一人で見てもさほど楽しくないので、すぐに止めた。
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