« 涼しい雨に、人形のお雪さんの衣替えを思い出した。10年9月8日 | トップページ | 猛暑は生き甲斐を麻痺させたが、冷涼な秋が復活させてくれるだろう。10年9月13日 »

2010年9月10日 (金)

荒川河川敷のネムノキ 10年9月10日

7月、母が死んで直ぐ、郷里大堂津から供物が送って来た。
その中に餡入り落雁があった。送ってくれたおばあさんは、私が子供の頃から好物だったのを覚えていてくれたようだ。供物は菊や蓮を形取っていたが、船おろしの祝いでは1尺ほどの大きな鯛の形だった。希にそんな大物を貰うと何処から食べようかワクワクした。

落雁は仏前に8月末まで供えておいて、先日、緑色の蓮を食べた。翌日、残った白菊を食べようとすると、小さな茶色の斑点が入っている。猛暑続きでカビたようだ。
「しまった。」
すぐにカビ毒が気になった。カビ毒のアフラトキシンは肝臓を侵す最強の発がん物質である。その種のカビではないと思うが、先月引いた浅草観音様のおみくじ3連続凶が頭を過った。それからは厭なことが次々と思い浮かんだ。

数日後から右脇腹の肝臓のあたりが痛み始めた。しかし、食べたカビは極めて微量で、すぐに症状が出る訳がない。多分、5月1日の胆嚢切除手術の後遺症だろう。
手術後しばらく右脇腹に痛みが続いていたが、母が死ぬ頃には消えていた。今回の痛みは心理的なものか、術後の軽い癒着の所為だろう。あるいはもっと悪性のものでは、と昔のガンノイローゼがちょっと頭をもたげたが直ぐに消えた。母の死で、健康に拘泥しなくなった。今は事実は事実として、そのまま受け入れられる。だから、区の胃ガン検診を初めて受けることにしている。

暑さが一段落したので、8年ぶりに荒川土手を散歩した。母の介護を始める前は毎日のように荒川土手を散歩していた。夕暮れが殊に良く、地平線を赤く染めて落ちる夕日に感動していた。

やっと自由になったのに気分は晴れなかった。
鉄橋をくぐって、下流の岩渕水門へ向かった。8年前は左手の河川敷にお花畑があり、今頃はコスモスが咲いていた。お花畑は野球場に整地され味気なくなっていた。

お花畑の更に昔の20年前は葦が生えた荒れ地だった。
ときおりアンダーグウンドの劇団がテントを張って公演した。その中、知人が関係していた浪漫劇場の公演をすぐに思い出す。

ストーリーは忘れたが、クライマックスだけは記憶にある。テントの片側が開いて夜の荒川が見えた。同時に砂地の溝に撒かれた石油に火がつけられた。すると、暗い水中から役者がウワーと咆哮しなから次々と現われた。当時の荒川はドブ臭かった。そんな汚い川に潜って待っていた役者たちにとても感心した。びしょ濡れの彼らは炎を蹴散らしながら、観客へ近づいて来た。その強烈な印象だけで記憶は途切れている。

公演は消防法に抵触するが、河川敷は官憲がの目が届かない場所だったのだろう。まだ、バブルの気配が残っていて、元気一杯だった自分や母を思い出すと切なくなる。

Nemu_2

8年前のお花畑の傍らで、私の肩ほどの高さだったネムノキは見上げるように大きくなっていた。
日射しは強いが秋の気配で暑くはなかった。

写真遠方の新荒川大橋を過ぎて赤い岩渕水門に向かった。川向こう、川口の高層マンションが巨大な遺跡のように見えた。

Ara

岩渕水門から都内唯一の酒造所小山酒造へ向かった。小山酒造はなくなり跡地にマンションが建っていた。母を介護している間に世の中は随分変わってしまった。荒川の釣り客でにぎわっていた小山酒造の店舗は残っていたが、午後の陽に照らされた店内はひっそりしていた。

赤羽駅前に出て、買い物をして帰った。
昔の風景を眺めても感動はなく、物寂しさが残った。加えて、台風の吹き返しのように母の喪失感に苦しんでいる。
時折、この闇は明けないのではと思ってしまう。しかしすぐに、志ん生の「火炎太鼓」を聞きながらゲラゲラ笑っている。どんなことでも時間が解決してくれるようだ。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

|

« 涼しい雨に、人形のお雪さんの衣替えを思い出した。10年9月8日 | トップページ | 猛暑は生き甲斐を麻痺させたが、冷涼な秋が復活させてくれるだろう。10年9月13日 »