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2010年10月 4日 (月)

朽ちて行く ひばりヶ丘団地を 写真に撮った。10年10月4日

3日日曜、姉の三回忌の法要に西武線沿線の大手寺院別院へ出かけた。別院は本家と違い、場所も僧侶の資質もかなり祖末で場末だ。しかし、安い費用に見合ったことで、あれこれ言うほどではない。

法要の後、みんなで近くのデニーズでお茶をした。久しぶりに昔のように姪たちとバカ話をしていると気分が晴れた。しかし、その場面から母と姉が消えているのが寂しかった。次に消えるのは年の順なら下の姉だが、これだけは誰にも分からない。

車で送ると言う姪たちを振り切って駅まで歩いた。途中にあるひばりヶ丘団地の写真が撮りたかったからだ。

ひばりヶ丘団地を初めて見たのは上京した昭和38年だ。死んだ姉がひばりヶ丘駅近くに住んでいて、姉の案内で母と一緒に見学した。母は広大な団地を外国のようだと感激していた。今も春日射しに照らされた芝生と真新しい建物を眩しく思い出す。ひばりヶ丘団地に行ったのはその時一度だけだったが、後年まで母はその時の思い出を何度も話していた。

ひばりヶ丘団地が作られたのは昭和34年。広大な中島航空金属田無工場跡地に造成されたマンモス団地の走りだった。敷地内にはスポーツ設備から学校、スーパーマーケットまで作られ、その後の公団住宅の手本になった。そのせいか我が家近くの赤羽台団地ととても似ている箇所が数多くあった。

当時は作られて4年目で、芝生や植木が根付き一番綺麗な時期だった。それから半世紀近く過ぎて若木は鬱蒼と生長していた。団地は幾多の生活の痕跡を残して老朽化し、殆どは空き家になっていた。人通りと子供たちの歓声が消えた団地の道に、母と姉と歩いた記憶が懐かしく蘇った。

団地の一部は塀で囲まれ立て替え工事が始まっていた。
直ぐに壊されそうな建物を見つけては夢中でシャッターを押した。主要な写真は下に掲載した。それぞれをクリックすると別窓に大きな画像が開く。

夕暮れに帰宅した。
姉の法要に母の遺髪を持って行き、祭壇の姉の骨壺と対面させた。
姉が死んだ時、母は会って別れを告げたいと希望したが、連れて行くには母の体力では無理だった。やっと母の魂を姉に対面させて、わだかまりは少しだけ晴れた。

☆下写真、クリックすると別窓に拡大して開きます。

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