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2011年2月14日 (月)

原宿でパーティーに参加しながら無縁社会を思った。11年2月13日

昨夜、原宿での出版記念パーティーへ行った。
みぞれまじりの寒い日だったが、街には若者があふれ活気があった。雨に濡れた明治神宮の深い森もすばらしい。人工の森なのに深く静かなたたずまいは都会の一角であることを忘れさせてくれる。

ケヤキ並木への陸橋の上ではファッション誌の撮影をしていた。花模様のワンピースを軽やかにまとったモデルは寒さをものともせず、はじけるような笑顔でポーズをとっていた。

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本番前のパーティー会場では、本の企画をした若者たちが生き生きと準備をしていた。

本へ私もメッセージを寄せたが、言葉ほどにきれいに生きているわけではない。私を含め、大人の多くが清濁あわせ飲んで仕事をしている。はたして、大人たちが正義とか情熱とか言うほどに、若者たちの規範になれるのか。会場の人混みの中で、ザラザラとした段差に戸惑いを感じた。しかし、女子大生たちは無条件で可愛かった。就職の壁や社会の理不尽さに翻弄されながらも、若者たちが夢を語る姿は心を打った。

20年後に世界は人口減少に転じる。前人未到の高齢化社会に突入した日本は世界から注目されている。そのころ、目の前の若者たちは熟年を迎え社会の中堅を担う。そう思うと、心から応援しなくてはとメッセージを書いた。--「100番目のメッセージ」かんき出版。

二夜続けてNHKで無縁社会取り上げていた。土曜夜の、「日本のこれから無縁社会 働く世代の孤立を防げ」は原宿にいたので見なかった。
若者の多くが、「将来、自分は無縁化するかもしれない、」と恐れている。調査では20年後に、3分の1以上が単身世帯で無縁化に陥るリスクを抱える。なぜ働く世代の多くが無縁化のリスクを抱えているのか。それらが番組で議論されたようだ。

私は昭和38年に上京した。当時は町内に必ず世話焼きのおばさんやおじさんがいて、葬式や年中行事を取り仕切り、困っている人がいたら助けてくれた。どこかで死者で出ると押し掛けて手際よく葬儀を仕切った。だから、町中で死体が三ヶ月も知られないなどあり得なかった。

それから40年。町内の世話焼きは死滅し、住民はおせっかいを敬遠するようになった。しかし、せわやきおばさんやおじさんに代わる繋がりのシステムは構築されていない。公的機関がそれに代わるには非力過ぎるし、社会の負担も大き過ぎる。

これからの20年、住民自らがプライバシーを尊重しつつ新しい形のおせっかいをどう再構築するか、それが無縁社会解消のキーポインかもしれない。私的には、住民一人一人が相手の立場を考えた親切を心がければそれに到達すると考えている。
しかし、総ての人が素直に親切を受け入れる訳ではない。時には、「余計なお世話。」と、こっぴどく拒否されることもある。その時、挫折しないための訓練は必要だと思っている。

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今朝は快晴だった。富士も前衛の山々も雪に覆われていた。
6時に目覚め、私はカメラ片手に玄関前の通路を駆け回って撮った。この雪では、山の小鳥や動物たちは餌探しで大変だろう。

DenwaNeko_2東京メガシティー前の公衆電話。

おそらく、日に数人ほどの利用者だろう。
それも、固定電話も携帯も持っていない老人たちが大半だ。
老人が話しかけている老いた公衆電話。その温かい繋がりは古い風景のような懐かしさを覚える。

新河岸川河畔のユキヤナギ。
すでに春の兆しだ。

最近、生のハーブを料理に使っている。
乾燥品より香りが良くて美味しい。
難点は使い切る前にしなびてしまうことだ。

それで昨日は生バジリコをたっぷり入れたハーブティーを、
今日はレモンバームのハーブティーを飲んだ。

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