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2011年5月 3日 (火)

母の死を思い出しながら、自分の死は認識できないと思った。11年5月2日

旧聞になるが、今年の芥川賞の朝吹真理子と西村健太の対比は面白かった。どちらに興味があるかと言えば西村健太だ。文学界やマスコミは朝吹真理子の血筋の良さを強調していたが、和牛ではあるまいし血筋がいいから美味いとは短絡過ぎる。朝吹真理子は確かに品の良い格調高い文章ではあるが、ただそれだけで面白みに欠ける。美女と野獣と言っていたマスコミもあったが、彼女はどんなに目を細めて見ても美人には見えない。歯並びも肌色も悪く不健康な印象さえある。その程度の容姿や血統で褒められるのは、彼女は迷惑なことだろう。あと10年、世俗にまみれて苦労すれば本物の作家になるかもしれない。その点、西村健太は圧倒的な面白さがある。こちらは、何度も浮沈を繰り返しながらも文学界を生き残って行きそうだ。

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今日は黄砂が来た。好天ならこの方向に奥秩父の山塊が見える。黄砂には中国の石炭火力発電所から発生した微量の放射性物質が含まれている。例年なら大騒ぎしたが、原発事故の現状では歯牙にもかけられない。人は苦労すると大きく変わる。今回の大災害で日本人も強く大らかに変化しそうだ。

昨夜は徹夜でポスターのラフを描いてクライアントにメール添付で送った。4月一杯振り回されたが、到着後ようやくゴーサインが出てホッとしている。久しぶりに徹夜をしてお昼まで寝ていたので、遅い朝食の後、午後に散歩へ出た。

新緑が美しい。去年の今頃は近所の東京北社会保険病院で胆嚢摘出の緊急手術をした後、ベットに寝ていた。世話が出来なくなった母は緊急措置として同じ病院に入院させた。胆嚢炎を起こしたのは母の介護による過労からだ。その経緯は何度も書いたが、緊急入院をきっかけに母は急速に弱り2ヶ月後に死んだ。今も、そのことを深く悔いている。しかし、母が死ななかったら私は再度過労で倒れ、母は慣れない介護施設で命を縮めたはずだ。今は母の死はどうしようもない運命だったと思っている。

S_1S_3S_4S_5S_2帰り道、御諏訪神社下の道を近所の老人が掃除をしていた。昔はそのような律儀な老人が日本の何処にでもいた。
「清々しくなりましたね。きれいにしていただき、ありがとうございます。」
挨拶すると老人は照れながら笑顔になった。私が声をかけたのは、母なら必ずそのように声をかけると思ったからだ。

母は死んだが、そのような形で私の中に生きている。話しができるだけが生きている証ではない。他者を構成するのはその人の記憶で、母は半分だけ私の中に生きている。それを感じているから東北の被災者たちは懸命に故人の思い出のアルバムを探しているのだろう。

母を含め自分以外の死と、自分の死は別物だと思っている。自分以外の死は認識できるが、自分の死は認識できない。それは眠りに陥る瞬間に似ている。

胆嚢摘出の腹腔鏡手術を受ける時、生まれて始めて全身麻酔を受けたが、眠りに陥る瞬間の記憶はなく、気がついた時は手術が終わっていた。

眠りと死との違いは二度と目覚めないことだ。死ねばそれを意識する自分も消える。だから、自分にとって自分の死は存在しないことになる。

緑道公園にミズキの白い花が咲いていた。この花は赤羽に多い。以前はその名を知らなかったが、赤羽で暮らすようになってからミズキを知った。花の後、夏になればブドウのような小粒の実を付ける。秋の葉はガラスのように半透明になって美しく紅葉する。冬の赤紫の枝が青空に広げる姿は端正で美しい。それらの変化を知ったのは8年間の母の車椅子散歩のおかげだ。

ビンクの花はハナミズキ。これはミズキの仲間だ。ミズキは水脈の上に好んで生える。だから、昔の人はミズキを目印に井戸を掘った。

緑道公園のノラネコ。
餌をあげる人いるので、毛並みが良い。

東京北社会保険病院下の公園で、四葉のクローバーを見つけた。
ブログを書きながら、ふいに5月1日の祖母の命日を忘れていたことに気づいた。すぐに、書くのを中断して仏壇に灯明を上げた。

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