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2011年5月20日 (金)

原発の安全神話が醸成され、崩壊したのは何時なのか。11年5月20日

今、原発事故原因にベントの遅れが指摘されている。ベントとは格納容器の内圧を逃がして爆発を防ぐ緊急措置だ。しかし、ベントの遅れは今だから言えることで、当時の東電職員に的確な初動は無理だった。

遅れた最大の理由は安全神話にある。事前に想定外の災害時の緊急措置がまったく想定されていなかったからだ。原発は一般の設備と違い厳格な法制とマニュアルで規制されている。地震直後、東電職員はマニュアルに従って行動しただけで、それ以上の行動を彼らに期待するのは無理だった。

今日の国会での原発事故追求で、自民党の佐藤正久議員は原発事故は無能な管内閣が引き起こした人災だとこき下ろしていた。要約すると、原発が危機的状況の時、管総理が現場の人員を招集したために、管理が疎かになり水素爆発を起こしたと彼は追求していた。

しかし、危機的状況を知っていた職員が現場を疎かにするだろうか。メルトダウン、水素爆発、大量の放射性物質の飛散と、次に起こることが分かっていたら、職を賭して管総理に抵抗し、絶対に現場離脱はしなかったはずだ。実際は危機的状況は分かっていても、頭の片隅に安全神話があり、現在ほどの深刻さはなかったと思われる。

今回の事故追求では、原発安全神話が崩壊した時期が重要になる。管総理が福島第一にヘリで飛んで東電職員を叱責していた頃は、総理にも職員にも安全神話は生きていて、少々爆発してもメルトダウンしても、格納容器と炉心の安全は保たれると信じられていた。だから管総理はヘリを飛ばして説教に行き、東電職員は現場を疎かにしたのだろう。かく言う私も、恥ずかしながら原発の安全神話を信じていた市井の一人だった。

もし、佐藤正久議員が言っていることが事実ならば、管総理も東電職員も能無しのふぬけと言うことになる。しかし、少なくとも東電の現場職員は粛々とマニアルに従って行動しただけだ。その点が、人的ミスを重ねたアメリカのスリーマイル島原発事故との大きな違いだ。

このところ管総理は無能だと喧伝されている。私も好奇心から彼が無能である証拠を探しているが、近年の歴代総理と同じくらい無能なだけで、佐藤正久議員が口汚く言う程に突出してバカではいない。自民党政権なら原発事故は起きていなかったような口ぶりだったが、東電は始めから今回のような緊急事態に対応できないシステムになっていた。仮に小泉前総理でも、法規違反を重ねることになる強権発動はできず、事故はなす術もなく起きていたはずだ。それが可能なのは、超法規的権限を与えられた原発を熟知する有能な学者だけだ。しかし、緊迫した状況で、それを決定することは無理だ。佐藤正久議員が追求すべきは安全システムを無視して原発を推進させた先輩議員たちだ。野党の国会追求は日本と福島県民の災難を責任転嫁し、政局に持ち込もうと彼を利用しているだけに聞こえた。

東電首脳と政府内で安全神話が崩壊したのは、周辺地域が高レベル汚染をしていると判明した頃からだ。その頃になってやっと東電首脳から安全神話への反省が出始めた。安全神話を作ったのは、自民党の原発推進派議員と関係官僚と東電と恩恵を得る建設地の地方自治団体と関連企業だ。将来の化石燃料の高騰に対処するために、政界産業界はどうしても原発推進をする必要があったが、被爆国の日本では反対運動が激しかった。

原発建設の草創期に安全神話はなく、謙虚に危険性を検討するリベラルさがあった。しかし、反対運動へ対処している内に、いつのまにか身内発の不利な情報は封殺されてしまった。事故対応のロボット機器の開発も、反対派に知れたら「やっぱり危険じゃないか。」と攻撃のきっかけになると、中止させられてしまった。逆説的だが、強硬な原発反対派もまた、特異な安全神話醸成に手を貸してしまったようだ。

原発事故へ至る真実は、国民の多くは直感で分かっている。だから、原発事故を追求する野党の姿勢に対しても「そもそも元凶を作ったのはお前たちだろう。」と冷ややかに見ている。野党自民党が佐藤正久議員のような1年生議員を追求に利用しているのは、原発推進の汚点がないからだ。

今もって、原発推進派議員や関連官僚から、反省の言葉が聞こえて来ないのは奇異なことだ。原発推進議員は民主党内にも多く、管総理の歯切れの悪さの原因になっている。

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代々木で仕事の打ち合わせをした後、新百合ケ丘近くに住む版画家の菊池氏を訪ねた。
写真は彼の家近くの駐車場。多摩丘陵の一角で平地が少なく、建物の屋上が駐車場になっていた。

B_2B_1B_3B_4B_5小田急線、登戸手前の多摩川。

新百合ヶ丘次の柿生で下車。

茶臼山日光台への左の坂を上る。

菊池氏宅近くからの眺望。

持参したカツオのたたきとタラバを肴にビールを飲んだ。
北海道育ちの彼は寒がりだ。暑いのにストーブを点けたのには驚いた。

北海道旭川産の私の義兄も大変な寒がりだったので、彼の寒がりは理解できる。北海道は暖房が完璧で、すきま風だらけの寒い家屋で育った我々より道産子は寒さに弱いようだ。

飲んだ後、二人で新百ヶ丘の上野氏を訪ねた。三人でお茶を飲み、11時過ぎに辞した。

新宿には11時52分に着いた。走れば55分の最終に間に合う。息せき切って埼京線川越行き各駅停車に飛び込むことができた。

北赤羽には0時15分に着いた。母と死別してから始めての終電帰宅だった。

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