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2011年5月10日 (火)

仕事で聖蹟桜ヶ丘まで小旅行をして、恋路稲荷神社にお詣りした。11年5月9日

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5月6日金曜日の午後、東京北社会保険病院のベンチで空を見上げながら休んだ。
ポスターの仕事納品を月曜に伸ばしてもらえたので、のんびりしていた。
斜陽に照らされた雲の透明感に、何もしやらないない安らぎを感じていた。


B_1病院庭に清楚な白い花が咲いていた。
花の形は卯の花に似ているが、卯の花と違い高木で、葉はより大きく鋸状の縁なのが違う。
帰宅して調べてみたが名前は分からなかった。


土曜から猛烈な勢いでポスターの仕事を始めた。
しかし、月曜までに完成するのはかなり厳しい。
四月からくるくる変わるクライアントの意向にその都度応じて来たので、原画を10枚描くくらいのエネルギーを費やしてきた。
結局、日曜夜は徹夜になり、月曜お昼、寝ないまま代々木のデザイン事務所へ納品した。
原画はすぐに印刷工場へ送られた。

帰りの埼京線で仮眠を取り、お昼過ぎに帰宅した。
一眠りする前に、出がけにスキャンしたデータをプリントしてチェックした。すると、描き残しがある。芝居の重要なキャラクターの前髪がべた塗りのままで筆が入っていない。徹夜で仕上げると、往々にしてあるミスだ。このままでは大変なことになる。すぐにデザイン事務所へ連絡し、印刷工場へ出向いて加筆することにした。工場は多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅から2キロほどの場所。食事をして眠気覚ましにカフェイン入りのドリンク剤を飲んで家を出た。


新宿で京王線に乗り換えた。20年前、劇団七曜日の仕事をしているころ、主催者の渡辺正行氏の個人事務所「なべや」が笹塚にあったので年に2,3回は京王線で通っていた。
更に50年前は、友人が笹塚に住んでいたのでよく遊びに行った。近くに香料工場跡の荒れ地があり、傍らを通るとトイレの芳香剤の香りが強く漂っていて、ちょっと気分が悪くなった。


B_5B_3B_2B_4京王線車窓から見た多摩川。
カメラを取り出しているうちに、あっという間に鉄橋を過ぎてしまった。

準急は18分で聖蹟桜ヶ丘に到着した。始めての街へ下車するのは小旅行の気分だ。駅前でタクシーを拾って工場へ向かった。しかし、タクシーの運転手が方向音痴で、地図を渡したのに位置関係が理解できない。大きな目標になるはずの東寺方ショッピングセンターを描きこんでいたのに、それが理解できない。

「お客さん。方向間違えたみたいで申し訳ないです。メーターは倒しておきます」
運転手はあちこち走り回ってから謝った。
そして、5,6分の距離なのに20分ほどかけてやっと工場に着いた。


地図では工場前に恋路稲荷があった。
工場へ入る前に稲荷神社を見学することにした。
見当をつけて行くと、小さな丘の上に小さな社があった。しかし、恋路稲荷の表示はない。傍らに東京都指定史跡稲荷塚古墳と説明書きがあった。

多摩川に注ぐ大栗川右岸の舌状大地に立地した稲荷塚古墳。1300年前に作られ、形状は直径34メートルの円墳で石室は凝灰岩の切り石を組んだ横穴式、とあった。

本来は2段築成だったが稲荷神社を建てる際、上の段は削られたようだ。設計に高麗尺が使われているので、渡来系の豪族の古墳かもしれない。古代には表面に貼り石がされていたが、今は写真のように小さな丘に変化している。

写真を撮っていると豆柴を連れた女性がやってきた。
ワンコが足元に戯れて来たので相手をしながら女性に聞いた。
「地図には恋路稲荷神社とありますけど、説明にありませんね」
彼女は神社の回りをあちこち探して「確かに、恋路の名はありませんね」と笑った。

神社の前は畑になっていた。
上京した50年前、東京郊外にはこのような畑があちこちにあった。
稲荷神社にお詣りしてから、工場へ向かった。

加筆修正は30分程で終わった。
帰りは担当者が聖蹟桜ヶ丘駅まで車で送ってくれた。車中、3月11日の地震の話しになった。印刷工場では印刷前の四角く積み上げた紙が崩れ使い物にならなくなったようだ。

車は丘陵地帯を走った。宅地の間に残る新緑が爽やかだった。送ってくれた人の先輩の頃は、自然溢れる多摩丘陵でタヌキが沢山住んでいたらしい。
道々、昔観たアニメ「平成狸合戦ぽんぽこ」を思い出した。


帰りは空いている各駅停車に乗った。
すぐに爆睡した。
ややあって「正喜、起きなさい」と母が呼ぶ声で目覚めた。
車内放送で「次は桜上水駅」と告げていた。
急行の乗り換え駅だが、急ぐ必要はないのでそのまま各駅停車に乗り続けた。

少し寝たので眠気は消えていた。
夢うつつに聞こえた母の声を思い返していた。
それは元気な頃のしっかりした声だった。
そのころ、母が呼ぶのは、ビーズ細工の腕輪が完成したとか、テレビで面白い場面が写っているとかだった。
「忙しいんだから、つまらないことで呼ばないでよ」
文句を言うと「そんなことを言っていると、私が死んでから後悔するよ」と、母は言い返した。
「そんなこと考えていたら、言われること全部に応えなくてはならなくなるだろう」
私はそのように言い返した。
その後、母は死んでからのことは二度と言わなくなった。
今思うと、母も、父や祖母に対し、そっけなくしたことを後悔していたのだろう。

私は人一倍親孝行だったと確信しているが、それでも至らない点は沢山あり、母との死別後、後悔に苛まれた。しかし、そのように至らないのが人間の本来の姿だと今は思っている。


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