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2011年9月 8日 (木)

天使去り ペパーミントの夢醒める 11年9月8日

朝食後の散歩前、少し眠った。母の介護のころから、夜、十分に眠れず5時間ほどで目覚めるので、補うように昼寝をする。殊に午前中の昼寝は悪影響が少ないので努めてしている。

眠った30分ほどの間に母の夢を見た。私は車椅子の母と喫茶店でコーヒーを飲んでいた。それから帰途につくと、石ころだらけ海辺の道に変わって車椅子は押せなくなった。それから先はどうしても思い出せなく、突然に死んだ母が私を呼ぶ声で飛び起きた。一瞬、虚しさがこみ上げたが、呼んだ母の声がとても元気だったことは嬉しかった。

目覚めてからふいに、父親を長年介護して亡くし、喪失感に囚われていた知人のことを思い出した。
彼女が父親と死別から4年過ぎた頃、父親の夢を見たと彼女から手紙が来た。彼女は父親と夢の中で会話し、目覚めたら喪失感が薄れていたとあった。どんな会話なのかは説明はなかったが、その救われた気持ちは何となく分かった。

私も目覚めてから、少し心が軽くなっている気がした。一度の夢くらいで喪失感がなくなるものではないが、そのような夢を何度か見るうちに、彼女のように解決して行くのかもしれない。

先日、NHK「明日へ再起への記録 "みんな一人じゃないからな" 閖上中学校の仲間たち。」を見た。津波の被害を受けた宮城県名取市立閖上(ゆりあげ)中学校は、別の学校を間借りし授業を再開している。中学校は生徒14人を失い、生き残った生徒も家や家族を失ったものが多い。半年が過ぎて、ようやく生徒に笑顔が戻り始めたが、災害を思い出すと辛さが蘇るようだ。

番組では7人の同級生を亡くした3年生45人とその家族を長期取材していた。その中で、息子を亡くした母親の姿は心を打った。一人の時は涙に暮れていたが、息子の野球仲間の前では笑顔で気丈に振る舞っていた。
グリーフケアによる統計では、子供を亡くした母親の哀しみが一番強くて長引く。時には一生引きずることも多い。その次は妻を亡くした夫で、私のケースは一番小さい。取材された遺族たちは皆、人前では明るくふるまい涙は見せなかった。しかし、見えない分、一人の時の哀しみが画面から伝わって来た。

散歩の行き帰り、外に面した非常階段を上り下りしている。まだ暑い今は風が抜けて心地良い。階段の踊り場で、夏の最後を生きたアブラゼミたちが力尽きている。彼らは空を見上げ、幸せそうに寝ているように見える。
蝉の臨終はあっさりしていて、医者だ酸素吸入だ一切ない。見送る親族もいない。一人さっぱり死んで行く。羨ましい程の死に様だ。そして葬式もなく、遺体は掃除のおばさんがさっさとゴミ袋へ片づけてしまう。

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日中の日射しはまだ暑いが朝夕は涼しい。
夜は蝉に代わって、新河岸川の護岸の草むらで鈴虫やコオロギたちが鳴き始めた。

 天使去り ペパーミントの夢醒める

薄雲が天使の羽のように見えた。絹雲の一種だろう。雨雲の前兆だが、この量では雨は来ない。

K_3K_4K_6K_7この百日紅は紅色が濃く目立つ。緑道公園。

 グラウンドに 人影絶えて夏去りぬ

若者が二人キャッチボールをしていた。
赤羽自然観察公園。

イヌビワの実。
蜜が滲んでいてとても甘い。
熟したのを沢山食べた。
赤羽自然観察公園

赤羽自然観察公園の古民家
旧知の係員と会い、お喋りした。
それから、少し横になった。
涼しい風が吹き抜けて心地良かった。

帰りに、母を散歩に連れて行っていた頃の知り合いと次々と会った。
皆、年を取って、足取りが悪くなっていた。

「みんな、歳取ったね。」
あの世から母が話しかけたような気がした。

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