子供を亡くした母親の哀しみは、家族との死別後の調査統計で一番深い。11年10月21日
母との死別以来、住まいは静かになった。13階の住まいはいつも一人で、訪ねて来る人は希だ。テレビを消すと、時折、新河岸川の鉄橋を過ぎる新幹線や埼京線の音が聞こえる。そんな時、ふいに心の中に死んだ家族たちが帰って来る。
「ああ着いた着いた。やっぱり家はいいね」
外通路から母の陽気な声が聞こえて、死んだ父、祖母、兄、姉の陽気な声が続く。
皆、南国育ちなので陽気で声が大きい。
家族たちの、にぎやかな声が近づいて来て玄関が開く。
「ただいま。元気にしていたの。ごはんはちゃんと食べているの」
母の明るい声が聞こえて・・・
すぐに自分一人だけの現実に引き戻される。
今も、当たり前のはずの死を納得していない。何故に家族たちが私より先に死んだかではなく、何故にかくも深い哀しみを残したのか理解できないでいる。
今朝、母の使っていた置き時計が止まっていた。
電池を取り替えたのは二年前で、母はまだ元気だった。
「やっぱり死んだのか」
電池を取り替えながら、独り言をつぶやいた。
母との死別以来、何かにつけて独り言を漏らすようになった。
残された者は辛い。グリーフケアには様々なケースが書かれている。夫を亡くした妻。妻を亡くした夫。親を亡くした子供。子供を亡くした親。
その中で、親を亡くした子供の場合は、その年齢でかなり違ったものになる。私のように十分に長生きした親を亡くすケースが一番自然な死別だろう。それでも哀しみは残るので、他のケースの哀しみの深さは想像に難くない。
それらの中で哀しみが深く、癒されることが難しいのは子供を亡くした親だ。
それについてデンマークの調査統計がある。
子供を亡くした両親を18年間追跡した結果では、子供が健在の両親と比べて母親の死亡率は1.43倍高い。
内訳は、がんなどの病気による「内因死」は1.26倍。
交通事故や自殺などの「外因死」は2.45倍。
子供を亡くした父親の死亡率は、子供が健在な父親と比べて1.09倍。
「内因死」で1.07倍。
「外因死」で1.15倍。
同じ親でも、父親と母親では死別の哀しみは大きく違う。
交通事故や自殺などの「外因死」の死亡率は、子供が亡くなってから1−3年後に、母親では3.84倍と異常に高く、父親でも1.57倍と高くなった。
母親のがんなど病気による内因死の死亡率は、子供が亡くなってから長期間を経た9〜18年の間は1.44倍と一番高かった。・・・父親では、この時期の死亡率も、他の時期の死亡率も、一般とさほど変わらない。
子供の死が母親の死亡率に与える影響の大きさに、母親の年齢や教育による違いはない。亡くなった子供が一人っ子の場合や、母親自身がシングルの場合は、母親の死亡率も高くなる傾向がある。
結論すると、母親の内因・外因死、共に死亡率は高い。
父親の場合は、子供が亡くなって間もない頃の外因死率が高い。
子供の死は父親より母親へ大きな影響を残すようだ。
世間では、死別後に母親が人前で笑顔を見せると立ち直ったと誤解する。
しかし、この哀しみは容易に消えるものではなく、安易な判断は禁物だ。子供を亡くした母親の笑顔は深い心遣いと捉え、哀しみは死ぬまで続くものと思うべきだ。
漁師町で暮らしていた子供の頃、漁に出た若い息子を海難事故で亡くしたおばあさんが近所にいた。亡くなったのは数十年前のことだが、おばあさんは真冬の夜でも雨戸を閉めずに寝ていた。
「息子が夜中に海から帰って来るような気がして雨戸が閉められない」
母が聞くと、おばあさんは話していた。
母親の哀しみはそのように深く、生涯消えるものではない。
子供と死別した母親のグリーフケアは優しく悲しい気持ちを聞いてあげることに尽きる。間違っても、「死は誰にでも訪れることだから早く忘れなさい」とか「頑張りなさい」とか「哀しんでいると死んだ人が成仏できませんよ」などと言ってはならない。
もし、そのような励ましで解決したように見えたとしても、それは表面上のことで、哀しみは心の奥底に澱み、苦しみを長引かせ、時には鬱病を発症する。死別によって残された者は哀しみを隠さず、人へ話すことだ。繰り返し話すことで、やがて哀しみは懐かしい思い出に変化する。
どんなに素晴らしい言葉も、哀しみに捉われている人の心に入って行くのは難しい。だから周囲の者は、絶えず寄り添い、ひたすら話しを聞いて、孤独をやわらげてあげることに尽きる。
死別の哀しみを癒すには長い年月を必要とする。ひたすら哀しみ、ひたすら話して行く内に自ら立ち直り、哀しみを懐かしい思い出に変えることが出来る。
しかし、それらを実行しても、死別の哀しみは終生消えることはない。
母は60代に長兄の繁を亡くした。私は嘆き哀しむと思っていたが、母は一度も涙を見せなかった。それから30年以上過ぎて、母の足腰が弱り車椅子生活になった頃、ふいに母が、その日からのことを話し始めた。
「あれから、夜中に何度、枕を涙で濡らしたか、数えきれない」
母は始めて本心を話してくれた。
そして、在宅で97歳で死ぬ7日前、深夜に様子を見に行くと、「繁、元気だったの」と母は嬉しそうに私を見上げた。長兄と私を勘違いしていると分かっていたが、私は黙って母の頭をなでた。その時、子供に先立たれた母親は死ぬまで忘れないものだと思った。
「おじいちゃんのバス停」
おじいちゃんが昔住んでいたドングリ山の思い出。
この絵本「おじいちゃんのバス停」は完成させて、Amazon Kindleの電子図書 にてアップした。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0B79LKXVF
Kindle Unlimited 会員は0円で購読できる。
上記ページへのリンクは常時左サイドに表示。画像をクリックすればKindleへ飛ぶ。
内容・・・
おじいちゃんのバス停・篠崎正喜・絵と文。老人と孫のファンタジックな交流を描いた絵本。
おじいちゃんは死別した妻と暮らした家に帰ろうとバス停へ出かけた。しかし、家は取り壊され、バス路線も廃止されていた。
この物語は、20年前に聞いた知人の父親の実話を基にしている。対象は全年代、子供から老人まで特定しない。物語を発想した時、50代の私には77歳の父親の心情を描けなかった。今、彼と同じ77歳。ようやく老いを描写できるようになった。
概要・・初めての夏休みを迎えた小学一年生と、軽度の認知症が始まったおじいちゃんとの間に起きた不思議な出来事。どんなに大切なものでも、いつかは終りをむかえる。終わりは新たな始まりでもある。おじいちゃんと山の動物たちとの、ほのぼのとした交流によって「終わること」「死ぬこと」の意味を少年は学んだ。
描き始めた20年前に母の介護を始めた。絵は彩色していたが、介護の合間に描くには画材の支度と後片付けに時間を取られた。それで途中から、鉛筆画に変えた。鉛筆画なら、介護の合間に気楽に描けた。さらに、水墨画に通じる味わいもあり、意外にもカラーページより読者に評価されている。それはモノクローム表示端末で正確に表現される利点がある。
東京北医療センター下・桜並木の小さなスーパーの飲み屋。
「お前は、無口で、余計な事言わないからいいね」
酔ったおじいさんが足元のワンコに、ニコニコ話しかけていた。
その向こうでは、桜の幹に「返事をしろ」と、酔った初老のおじさんが、くだをまいていた。
足元で 尻尾振ってる 飲み仲間
足元で 背中掻いてる ノミ仲間
木の幹に 何か喋れと くだをまき
緑道公園のナツメ。
切り落とされた枝に付いていた実。
大変甘くて美味しい。
公園課によって丸裸に枝をばっさり切り落とされていた。
後,3年は今年のように実を付けない。
この熟し具合だと、とても甘くて美味しい。
切られた枝から落ちた実で地面が埋め尽くされていた。
梢から、秋は静かに降りて来た。
赤羽自然観察公園。
野バラの実
赤羽自然観察公園・年末行事の、クリスマスのリース作りで飾りに使われる。
この一枝をリースに加えると、童話の世界に変わる。
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