死ぬ程怖かった闇金の取り立てと、父の名刺の束。12年2月24日
深夜1時、風の音が聞こえた。
23日は雨だったが、午後に雨は去り、明日24日は朝から晴天の予報だ。
寒風の中、星空を見上げながら、父が死んだ日を思い出した。
その日は30年前の6月1日、朝から晴天で風が強かった。
「好天の風の強い日に、亡くなる方が多いです」
翌日来た葬儀屋が話していたのが、今も強く記憶に残っている。
「お父様は今夜あたりが危ないです。もし、お亡くなりになったら、明日朝にお知らせください」
往診に来た医師はそう言ってから、脈の取り方を教えて帰った。
私はすぐに姉たちを呼び、みんなで父を見守った。夜10時、父は肺に溜まっていた生臭い血を大量に吐き、苦しんでいた顔が穏やかになって脈が触れなくなった。
「さあ、みんなで合掌しましょう」
母は神妙な顔で言った。
すると、死んだはずの父が「ワァー」と声を出して両手を振り回した。
父はまだ生きていたようだ。
「かあちゃんは、そそかっしいんだから」
姉たちが言うと、母も私も不謹慎にも大笑いしてしまった。しかし、父はそれを最後に本当に死んだ。
「勝手なことを言うなって、文句言いにあの世から戻って来たんでしょう」
母はそう言って照れていた。
心臓が丈夫な父は、意識不明のまま僅かなブドウ糖の点滴だけで一ヶ月程生きていてた。医師は、そのような自然死は一番苦しみが小さいと話していた。
父はすぐに白菊会に献体することになっていた。私は枕元で父のデスマスクを何枚もスケッチしながら通夜をした。翌朝、医師に電話で知らせると、すぐに来て死亡診断書を書いてくれた。献体したので葬儀は遺体なしで行った。享年七十九歳。献体は失敗ばかりの父の人生で、最大の社会貢献だったかもしれない。
後年、臨死の研究記事で知ったことだが、人は心臓が止まった後もしばらくは脳活動が続いていて、聴覚だけは はっきりしている。それで「死んだ」と話す私たちの声が父に聞こえて「死んでいないぞ」と、最後の力を振り絞って腕を振り回したのだろう。
父は一ヶ月以上の絶食で容貌が変わったが、死に顔は修行僧のような静けさがあった。
生前の父は、38度の熱でも入院させろと騒ぐ意気地なしだった。だから、死期が迫ったらさぞや大騒ぎするだろうと、母と私は話していた。しかし、死の三ヶ月前の意識がしっかりしている頃でも、何も要求せず静かに寝ていた。今思うと、意外なほどに父は死を覚悟していたようだ。
死の半年前、父は最後の仕事で共同経営者の保証人になった。80歳寸前の父に共同経営を持ちかけたのは、父を保証人にするためだった。だから、当人は闇金から大金を借りるとすぐに逃げた。保証人の父は代わりに闇金に追い込まれ、そのショックで倒れた。
倒れた父の代わりに私は矢面に立たされた。何度も呼び出されて死ぬほど怖い目にあったが、支払い義務はないので拒否し続けた。
その頃のことは想い出すのもいやだ。日中、歩いていて、乗用車が近づきドアが開いて引きずり込まれそうになったり、駅のホームで背中をつかれたりした。いずれも、父に代わって支払わせるための、軽い脅しだったが、日々続くストレスで体調がおかしくなった。それでも法的な支払い義務がなかったので、手心が加えられていたと思っている。
父と同じように闇金に追い込まれた友人の場合は、最初8000万の借金が、たちまち6億に膨らんで、毎日100万単位の利子を払っていた。
彼が闇金から借金をして間もない頃「大変お世話になっている」と、ある人物を紹介したことがあった。私は会った瞬間、その筋の人だと分かった。後で、注意を促したが、坊ちゃん育ちの彼には見抜けず、聞く耳はなかった。
その後彼は、彼らに好き放題に転がされて全財産を失い、短期間で元金は7倍以上に膨らんでしまった。そして、利子を払えなくなり、私たちの前から姿を消した。
私が支払い拒否を続けている内に、その筋の二人連れが寝たっきりの父に会わせろと我が家に押し掛けて来た。険悪な口調で対応していると、母が出て来た。
写真、昭和初期、九州久留米での20歳の母。母の家は戦前、日本各地の名だたる侠客たちと親交があった。
母が九州から上京して浅草などへ行くと、地元のやくざが挨拶していたほどだ。だから、ヤクザの使い走りへの対応は心得ていた。
「堅気の者に手出したら、どうなるか分かっていますね。指一本、私たちに触れたら、黙っていませんよ」
母が言うと、二人は勢いに押されるように帰って行った。
翌日、母は警視庁の公安課へ相談に行った。事情を話すと担当者は深く同情し、目の前で闇金へ電話を入れ、以後、取り立ては収まった。今は民事不介入をたてに、余程のことがないと警察は相手にしてくれないが、当時は庶民の訴えを真面目に聞いてくれる良い時代だった。
--母が訪ねると公安課へ回されたが、今は刑事組織犯罪・暴力団対策課が担当かもしれない。
彼らが簡単に引き下がったのは、私たちからコストをかけて取り立てるより、その頃から始まったバブルの地上げの方が楽に稼げたから、と思っている。
戦後の高度成長期、一級土木建築士の資格を持つ父は役所を辞めて大手ゼネコンに勤め、そのまま真面目に働けば生活に窮することはなかった。しかし、山っ気が多い父は金が貯まると退職し、会社を興して失敗した。その後も、数限りなく会社を作っては借金を重ねた。それらの後始末をしたのは母と私だった。
父が闇金に取り立てられる原因になった最後の仕事は経営コンサルタントだった。数々の失敗の経験を役立てようと始めた仕事で、仕事場は新橋駅前の安喫茶店だった。喫茶店と分かったのは、父が仕事仲間と電話で話している内容が聞こえたからだ。私の家族はみな声が大きく秘密を保つのが下手だった。
集まる仲間は父のような役人崩れやサラリーマン落伍者が多かった。父が新橋に出かけると、煙草臭い喫茶店に鳩首して怪しい計画をめぐらす老人たちが想い浮かんだ。
経営コンサルタントの立ち上げの時、ファイルするために数千枚の名刺に穴を明けてくれと父に頼まれた。私は、また下らない計画を立ててと腹立たしかった。文字を傷つけるのもかまわずに乱暴に穴を明けて父に渡した。その時、父は寂しそうに名刺の束を受け取った。
深夜、外へ出ると星空が見えた。最近、夜空を見上げると、死んだ父母や兄姉を思い出すようになった。どうしようもない自分勝手な父だったが、今になると、名刺の束に、もう少し丁寧に穴をあけてやれば良かったと悔いている。そう思うようになったのは、私が父の年齢に近づいているからかもしれない。
写真は闇金に追い込まれテストステロンとアドレナリン出っぱなしの38歳の私。父の債務は、死後直ぐに相続放棄をしたので法的に消滅した。
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