« 「ALWAYS 三丁目の夕日」に癒されたあと、無性に人と話したくなった。12年2月1日 | トップページ | 放射線ホルミシスと福島の風評被害。12年2月10日 »

2012年2月 6日 (月)

先日、王子稲荷の初午に行った。今年は三の午まである。12年2月5日

三日金曜に王子稲荷の初午へ行った。今年は2月15日が二の午、27日が三の午と残り二回祭礼がある。三日の初午は大寒波のため人出は少なかった。老人たちは、二の午、三の午に伸ばしたのだろう。

B0

上写真は王子稲荷本殿。例年は階段下から大行列で待たされるのに、この日は並ばずにお詣りできた。去年、何とか生活できた感謝と、今年の安泰を願った。

B3B2B1いつもなら、境内にある願い石は長蛇の列だが、今年は殆ど並んでいない。

石の重さは20キロくらいで、願い事を思いながら石を持ち上げ、軽く感じれば叶うと言われている。

私はいつものように顔の上まで上がった。
多くは老人なので石は全く上がらない。腰を痛めるので無理は禁物だ。

私は絵描きに転身する前、25年間彫金職人をしていた。
地金を伸ばす時、長時間、重い金槌をふるっていたので、痩せているが力はある。
その頃は片手で20キロは持ち上げていた。
それでも昔の職人の世界では非力な方だった。

職人になったのは映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の背景の前年で、力持ちが世の中に大勢いた。
東京オリンピク前の工事でも、出稼ぎの人たちはツルハシやスコップで軽々と穴掘りをこなしていた。
今の工事は機械化されている。
だから、今の若者は図体は大きいが、人力に頼る工事をさせるとすぐにバテてしまう。
しかし、アートの世界は人力が健在で、石彫や木彫をやっている知人たちはプロレスラーのようにマッチョだ。

王子駅へ続く縁日の人出も少なく、売り上げは大幅に落ちそうだ。
射的は得意でいつも百発百中だ。
左下の白いワンコは広島風お好み焼きの香りを鼻を伸ばして、食べたそうに嗅いでいた。

王子稲荷には毎年、母を連れて来ていた。
死んだ年の2010年の初午にも連れて来た。
「お詣りさせてくれて、本当にありがとう」
その年、母は帰り道で何度も礼を言った。
そして、「お詣りは、今年が最後になりそう」とつぶやいた。
その予感は当たり、その年の7月1日に在宅で私が一人で看取った。お詣りの帰り、最期の母の姿を昨日のことのように思い出した。

母が元気な頃に死別後の一人暮らしを繰り返し考えて万全の心の準備をしていた。しかし、現実はとても厳しく耐え難いほどの喪失感に囚われた。
その時、母親はかけがえのない存在だと思い知った。何も手助けにならなくても、母は私の心を支えてくれていた。

今の最大の後悔は「生んで、育ててくれてありがとう」と、一度も言わなかったことだ。黙っていても私の気持ちくらいは母は分かっていただろうが、それでも明確に言葉にすべきだった。

私は先月67歳になった。母は私の歳から30年、とても幸せに長生きした。仏像彫刻、編み物、人形作り、と思いつくかぎりの手芸を時間を惜しんでやっていた。芝居にも姉と連れ立って出かけていた。旅行もよく行った。私も、立山、志賀高原、黒部、裏磐梯とあちこち連れて行った。

車椅子生活になってからも、4キロ離れた自然公園へリハビリに、雨の日も雪の日も連れて行った。その散歩では大勢の知り合いが出来た。その30年間に手術を10回以上繰り返し、20回は入院した。しかし、どれも元気に切り抜けた。死ぬ1年前、「私は世界一幸せ」としみじみと言ったことがある。今思うと、それは誇張ではなかった気がする。独りになってみて、母のような幸せな老後は絶対に送れないと分かったからだ。

「自分だけ幸せな老後を送って・・」
時折、仏壇の母に文句を言っている。人は、親孝行したのだから幸せにはなれるよと慰めてくれるが、私が母にしたような世話を他人に期待しても無理だと分かっている。

母に死が迫った頃、夜中に、母とよく口論した。口論の原因はトイレを使いたいと私を頻繁に起こして、睡眠不足にさせたからだ。
「オレが倒れたら誰が面倒をみるんだ」
私は強い言葉を言ったが、母が死んだ後、もっと優しく言ってあげれば良かった、と深く後悔した。しかし、今は違う。本当の孤独は口論する相手もいないことだ。口論する相手がいた母はとても幸せだったと思っている。

死の10日前、「どなたかいませんか」と母が呼ぶ声で目覚めたことがあった。急いで行くと「ああ、よかった」と母は笑顔になった。「ここは病院じゃないよ。いつもオレがいるから安心して寝な」と言うと、母は安堵して寝入った。

その時、死が迫って医師に入院を勧められても、絶対に入院させないと決めた。
母は入院して無理な延命措置をしなかったので、死ぬまでまったくやつれず、死に顔は楽しそうに眠っているように見えた。

これまで、特別擁護施設に入っている老人を幾人も見舞ったことがある。彼らの多くは夜昼なく、家に帰りたい、家族を呼んでくれと訴えて施設を困らせていた。住み慣れた自宅があってそこに家族いるなら、我が家で死にたいと思うのは自然な気持ちだ。しかし、それが叶う者は希だ。
だから、私に手を取られ、息を引き取った母は最高の死に方をしたと思っている。死後1年半が過ぎた今、やっと、母は幸せな晩年を過ごしたと確信を持てるようになった。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Ma7

Ma_8

|

« 「ALWAYS 三丁目の夕日」に癒されたあと、無性に人と話したくなった。12年2月1日 | トップページ | 放射線ホルミシスと福島の風評被害。12年2月10日 »