エプソンフォトグランプリ2011に応募、最終選考に残ったが受賞は逃した。12年3月19日
母の遺影がパソコンのHDに2000枚以上保存してある。去年秋、それから適当に選んでエプソングランプリに応募したら最終選考まで残った。しかし、受賞には力足らず。もっと真剣に選べば良かったと少し残念。応募総数は18,896点で健闘したと思っている。
コンテストで勝つノウハウは熟知している。しかし、素材が母だと思い入れが深く、厳しい選定ができなかった。それが敗因と分析している。
以下に応募した組み写真を掲載した。
私が御諏訪神社にお詣りしている間、車椅子の母は階段下で日傘をさして待っていた。
御諏訪神社坂上に東京北社会保険病院があり、亡くなった方をお迎えへ行く霊柩車によく出会う。大病院では毎日人が死んでいるようだ。
母は霊柩車と出会うと良いことがあると信じていた。
暑い日は、霧吹きで母を湿しながら車椅子を押した。
「盆栽の手入れみたいだ。」と言うと、母は笑っていた。
90歳で肝臓ガンの大手術をしてからは再発を心配する日々だった。写真は手術から4年経過して、これで大丈夫と安堵していた頃だ。それが母の表情にも滲み出ている。しかし、この頃を境に少しずつ弱って行った。場所は赤羽台団地で、隣りの赤羽自然観察公園の帰りの一休み。
寒い雨の日も雨具の下に湯たんぽを入れて散歩へ連れ出した。母は雨具に雨粒が当たる感覚が好きだと言っていた。場所は早春の緑道公園。
雪の日も散歩へ出た。雪の降り始めだと車椅子を押せるが、凍ると凸凹が激しく、まったく不可能になった。場所は緑道公園。
元気だった母もさすがに力つき、木陰で眠っていた。
「今日は死にそう。」
この半年前から、母は散歩に連れ出す前に決まってそう言っていた。
「車椅子で死ねたら最高だろう。」
私は無茶を言って連れ出した。
木陰の涼風に心地良さそうな母を眺めながら、このまま死んだら最高の死に方だと思った。
場所は東京北社会保険病院下の公園。この頃は赤羽自然観察公園行きは止めて、この公園でリハビリをさせていた。
最期は、母は心臓が弱り、酸素飽和度が80を切って医師は入院を薦めた。しかし、私は前々から自宅で看取ってあげると母と約束していた。
私は医師に頼み、自宅に酸素吸入・タン吸引の器具を入れて最期まで介護し、私一人で看取った。母の介護は8年間。死の10日前まで散歩に連れ出して完全な寝たっきりは7日間。享年97歳。自然死だったので死に顔はまったくやつれず、元気な頃の笑顔に戻っていた。
死別後1年8ヶ月を経た今、死の前に撮ったこの後ろ姿を繰り返し思い出す。総ての人が一人で逝く。だから、この寂し気な後ろ姿に惹かれるのかもしれない。
人の命は永遠ではないと分かっている。しかし、どうしようもなく哀しみに囚われてしまう。それを受け入れるのには長い月日が必要のようだ。
昨夜、NHKで東京大空襲を扱っていた。戦後67年も経たのに、遺族は肉親の死を昨日のことのように記憶していた。あるおじいさんは、コッペパンを持ったまま死んでいた妹のことを思い出さない日は一日もなかったと話していた。おじいさんは今も、月命日に食べることができなかったコッペパンを持って墓参りに行く。
父親を遺体置き場で見つけた娘はもうおばあさんになっていた。
おばあさんは、今は公園の芝生になっている遺体置き場で、「お父さん、苦しかったね・・・」とその時、父親にすがりついて言った言葉を一言半句そのままに、幻の父親にすがるように芝生に寄り添っていた。
最愛の肉親との死別の哀しみは年月によって消えるものではない。今、そのことがとてもよく理解できる。
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