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2012年3月 4日 (日)

過去の反原発運動の方向性の誤りと、福島原発民間事故調査報告書に思う。12年3月4日

調査した委員会は科学者・原子力の専門家・法律家などで構成されている。聞き取りは菅元総理・官房長官枝野幸男経済産業相・原子力安全保安院・原子力安全委員会・官僚関係者など約300人に及ぶ。今までの様々な分析の中では比較的公正だが、法律家委員の自粛と東電が聴取に応じていないことなどあり隔靴掻痒の感は否めない。

この報告書で再発を防止できるかと問えば難しい。それは委員たち自身も十分に分かっていることだろう。今回の事故原因は端的に言えば東電が利益追求の民間企業だったからだ。東電は確実に儲かる独占企業で、その莫大な利益は、政界、官僚、マスコミ、企業、労組へ垂れ流された。その結果、安全軽視、コスト至上主義に異を唱える組織は皆無になってしまった。致命的だったのは原子力安全保安院・安全委員会・官僚が東電の言いなりに変質したことだ。

事故前、東電の姿勢を是正できる組織は原発反対の運動家や科学者たちだけだった。しかし、彼らはいつの間にか力を失っていた。先日、1981年・NHKアーカイブス・秘められた巨大技術の原発賛成と反対の論争を見た。反対派の論旨は現実味のない"核兵器転用があり得るから反対"に終始していた。そのころから、イデオロギー重視の硬直した反対運動に国民は嫌気がさし始めた気がする。もし、建設されてしまった原発を出発点にして、現実的な安全要求に動いていたら違った結果があったかもしれない。

政治的な反対運動は、ベント装置に巨大な排気フイルターを付けると反対派が大騒ぎすると、東電に本末転倒の考えを生んでしまった。もし、建屋に水素ガス排気装置を付け、ベント装置に排気フイルターを付けていたら、今程の汚染は生まなかった訳で、悔やんでも悔やみきれない。
---高温の金属に水が触れると水素が発生する。だから、そのような事態があり得る工場では必ず水素ガス対策を施す。しかし、狂信的なほどの安全神話のために、原発ではまったく考慮されなかった。

たとえ献金や天下り等の権益があったとしても、政界と官僚には東電を是正する力があった。しかし、彼らは安全神話にとっぷりと漬かり何もしなかった。たとえば事故直後、放射性物質の汚染地図を素早く想定するシステムであるスピーディの成果を報告しなかった文科省にもその体質が見られる。スピーディの担当者は汚染予測を知っていながら、政府に報告しなかった。「その指示がなかったから」がその理由だ。

政府首脳にスピーディの存在を知っている者がいなかったことは驚きだ。
しかし、米軍はそのシステムを熟知していて、事故直後、外務省を通じて汚染予測地図を逐次報告させている。それでも担当役人は日本政府には報告していない。彼らは高レベル汚染地域に住人が留まり、更に、低レベル地域から高レベル地域に逆避難している現実を知りながら黙って座視していた。これは人間性を失った恐るべき思考停止状態だ。

菅政権は無能だが、他政権であっても事故は起き拡大していたと思っている。なぜなら安全システム自体が始めから存在していなかったからだ。
非常時に政府首脳がするべきことは、現場の対策を承認し責任をとることしかない。しかし、今回の報告にあるように、東電にも原子力安全保安院・原子力安全委員会にも当事者能力が欠如していた。東電に至っては、事故直後、現場からの全面撤退すら訴えている。後で一部の保安要員を残しての撤退だと言い直しているが、それは疑問だ。実際は現場の吉田所長が中央からの撤退命令を無視し、死を覚悟して踏みとどまったのが真相だ。東電首脳の撤退要請は人身事故に発展した場合の責任回避の予防策だった、と思っている。

本当の原発安全システムは東電からも政権からも独立した組織で、どのような政権でもゆるぎなく機能するものだ。無能な政権だと事故が起きて拡大するようなシステムでは、国民は安心しては暮らせない。

もし、今回の原発事故を東電と保安委員に任せていたらすぐに終息し、汚染は起きなかっただろうか。それは違う。ベントは遅れ圧力容器への海水注入もなく原子炉は破壊され、3000万の国民が避難する危機的な状況が生まれていたはずだ。それほどにいい加減な安全システムを東電と歴代政権と官僚たちは平然と作り上げて来たのに、誰も責任を問われていない。今回の最大の戦犯は東電と歴代政権と官僚たちだ。その辺りの追求が甘い報告書に隔靴掻痒を感じている。

H1

散歩していると、誰かが呼んだような気がして立ち止まった。空を見上げると久しぶりの青空だ。風はまだ冷たいが日射しは暖かかい。

いつもiPodで聴いている音楽を、Phil Coulter のピアノ曲に変えた。昔、仕事の資料として貰った曲だ。その頃はみんな元気で、生活も健康も安定していた。内心、その頃を取り戻したいと思っていたのかもしれない。

他にも、銀行通帳が繰り越しになったのを機にディズニー模様に変えた。そのようなささやかなことで運命は変わると信じている。

もしかすると・・・私を呼び止めたのは、忘れていた思い出かもしれない。その都度、子供の頃の、キラキラ光る太平洋やレンゲ畑や菜の花畑が蘇ったからだ。

H2H3H4H5H6下の新河岸川河川敷。カモたちがのんびり日なたボッコをしていた。

3月1日、ハイテクミラーのメーカーを訪ねて、西川口へ向かった。
電車が川口に入るとこの風景に変わる。屋根上は、鋳物工場のキュウポラの排気装置ではないかと思う。右は荒川土手。この風景を見ると吉永小百合の「キュウポラのある街」を思い出す。50年前の川口は、この風景のマンション総てが鋳物工場だった。その頃の川口の子供たちは日曜には赤羽まで遊びに行っていた。

西川口の駅付近。田舎の風景が点在している。

メーカー開発部の小山さんとしばし懇談して辞し、大宮へ向かった。

大宮で浜田氏との待ち合わせ。途中にあった売り家。戦前の建物だが、転売されればビルに建て変わるのだろう。

 枯れぬまま泥に汚れる造り花

待ち合わせ場所、大成にある画廊喫茶「彩喜」を訪ねて17号線を北へ向かって歩く。
近郊都市特有の、殺伐とした中山道を北進すると、待ち合わせ場所の喫茶店があった。裕福なオーナーらしく、瀟洒な白亜の建物で、半分は画廊になっていた。人形展をやっていたが、作家は不在だった。 

浜田氏と高齢化社会について、しばらく盛り上がった。彼が車で駅まで送ると言うのを固辞して、歩いて帰った。始めての土地は様々な発見があり歩くに限る。

駅近くに蒸気機関車が設置してあった。見えない線路が、街へ向かって続いているような錯覚を覚えた。

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