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2012年5月 2日 (水)

半世紀前の安達太良山の思い出。12年5月2日

 50年近く昔のことだ。
九州から上京して、芸大を受験したが落ちた。
浪人してまで再受験する気にはなれず、親戚の世話で十条の彫金家に弟子入りした。
手に技術をつけて収入を確保すれば、自由な生き方ができる。
自由なら、いつでも絵描きになれると思ったからだ。
当時は「職人さん」の言葉が社会に生きていた。
今と比べると仕事はのんびりしていて、一般の3倍は楽に稼げた。
その上、私は極めて我儘な弟子だった。前借りも休みも、好き勝手にしていた。

 弟子入りしてから2年目の5月連休は、自分から申し出て仕事をした。
休みは連休が終わってから取った。
連休最後の日、仕事を済ませてから上野駅へ行き、適当に夜行列車に飛び乗って北へ向かった。

 夜明け前、列車は郡山辺りを走っていた。間もなく左手に朝日に染まった安達太良の山塊が見え始めた。
その広大な山の姿に惹かれるように二本松で下車した。
少し仮眠を取りたかったので駅員に適当な宿を頼んだ。
当時の地方都市は観光案内所があるところは少なく、駅員に頼むと宿探しをしてくれた。
その人は親切に、あちこちに電話を入れて見つけてくれた。

10分程待つと、宿から元気のいい女中さんが駅まで迎えに来てくれた。
「旦那さん、荷物をお持ちします」
歩き始めるとすぐに、彼女は私の肩からリュックを外そうとした。
若いのに旦那さんと呼ばれて照れ臭く、すぐに断った。
「お客さんに荷物をもたせちゃダメだ」
彼女は無理矢理にリュックを外してし、軽々と片手で持って先に歩いた。

 宿に着くと、宿の主人が炬燵へ迎え入れてくれた。
福島の五月の早朝は寒いくらいだった。主人は七十代半ばの頭を剃り上げた元気な人で、粋な柄の端布を繋いだ半纏を羽織っていた。
「どちらから来なすった」と聞かれたので「東京から」と答えた。
主人は長火鉢の鉄瓶からお茶を入れてくれた。
「二本松でも少年隊が討ち死にしたのに、白虎隊ばかり有名で残念だ。是非に二本松城を見てくれ」と、彼は維新のころの話しをした。

大勢の泊まり客たちと一緒に朝食を済ませた。
安達太良山へ行くからと、弁当を頼んだ。
弁当ができるまでの30分ほど、仮眠を取った。
当時は若く元気で、1晩くらい寝なくても平気だった。

 気ままな旅なので、山へ行く前に二本松城へ寄ってみた。
早朝の城内には、地元の人がちらほら散歩をしているだけだった。
城郭から二本松の町並みを眺めていると、一人で散歩に来ていた少女に、カメラのシャッターを押して欲しいと頼まれた。16,7歳の色白の目の大きな子だった。私は喜んで城趾を背景にシャツターを押した。
少女とはすぐに打ち解けた。聞くと彼女は那須の開拓農家の娘で、城近くの親戚の家に遊びに来ていると話した。これから安達太良山へ行くから一緒にどうだと誘うと、今日は予定がないから行っても良いと嬉しそうに応えた。

 登り口の岳温泉までタクシーに乗った。少女はタクシーは始めてだとはしゃいでいた。岳温泉に着くと少女は同窓生の女友達が旅館で働いているから呼んでもいいかと聞いた。
当時の岳温泉は宿が十数軒だけの小さな温泉町だった。中央に、だだっ広い岩盤のようなコンクリートの坂道が貫通していて、どの宿も斜面に転がり落ちそうに建っていた。少女は旅館へ走って行き、すぐに女友達を連れて戻って来た。
三人で喫茶店へ入った。彼女も友達も喫茶店のコーヒーとケーキは始めてだと大喜びしていた。少女がタクシーでここまで来たと話すと、友達は「すごい」と、目を丸くして驚いていた。二人は飲み物代を出そうとしたが「遠慮しなくてもいい」と支払うと大変恐縮していた。

 少女の友達はすぐに職場へ戻った。
二人で安達太良の中腹まで歩いて、リフトに乗った。
山腹からウグイスの声が聞こえて気持ちよかった。
リフトで高さを稼いだので、頂上はすぐ近くに見えた。
登山道をのんびり登っていると、少女は「こわい、こわい」と呟き始めた。どうしてこわいのかと咎めると少女は笑い転げた。
少女の説明では「こわい」は方言で疲れたの意味だった。
山頂に近づくと登山道に雪が残っていた。
彼女の運動靴は雪で濡れはじめた。
登山靴の私は平気だったが、彼女には無理と思い頂上は諦めた。

見晴しの良い日溜まりで昼食にした。
食事前に、びしょ濡れだった少女の靴下を私の予備の靴下と取り替えさせた。
少女は濡れて固く締まった靴下を脱ぐのに苦労していた。
手伝うと素足に一瞬手が触れた。
少女は頰から耳元まで赤くなった。
一瞬、どう振る舞っていいのかわからなくなったが、その空気を打ち消すように弁当を開いた。
弁当は、特大のおにぎり二個に塩辛い塩鮭の切り身とたくあんが竹の皮に包んであった。
二人で1個づつ食べた。山で食べると格別に美味しかった。

新緑の山腹をしばらく散策してから、午後の明るいうちに、二人で二本松に戻った。
別れ際、彼女にいつ帰るのか聞かれたので、明日朝の急行で東京へ戻ると答えた。
見送りは良いと言ったが、彼女は私の靴下を返したいから、どうしても行くと言い張った。

 夕食の給仕は今朝迎えに来た中年女性だった。
「可愛い子とタクシーで、どこかへ行かれたようですね」
彼女は話した。誤解されると嫌なので、二人で山へ登ったと正直に答えた。
「東京とは違うので、誰かが私達のことを見ていますよ」と彼女は笑った。
その夜は、庭を隔てた大広間で地元の宴会が始まり、うるさくて遅くまで寝付けなかった。

 翌朝、駅に行くと少女が待っていた。
列車の時間は話してなかったのに、彼女は早い時間から駅に来て待っていたようだ。
彼女は恥ずかしそうに紙袋を渡した。覗くと、洗ってきれいにアイロンを当てた靴下と手紙が入っていた。彼女が山での写真を送りたいと言うので、住所を書いて渡した。
手紙は電車の中で読んだ。手紙には、昨日の楽しかった思い出への感謝の言葉が並んでいた。

 帰京しから間もなく、彼女から山の写真が送られて来た。
返事は一度だけ書いたが、それ以後は手紙を出さなかった。
当時はまだ新幹線はなく、福島はあまりにも遠くて、手紙を書いても切なくなるだけと思ったからだ。

原発事故以来、福島は激変してしまった。
あの美しい自然を心から楽しめなくなったと思うと、とても寂しい。

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 上記文中の私は20歳。
画像の私は28歳で、厳冬の北海道旅行の時に撮った。
背景は安達太良山。

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