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2012年5月27日 (日)

昭和30年、遅い出征兵士の帰還。12年5月27日

子供時代を過ごした南九州の小さな漁師町大堂津には、太平洋戦争末期に特攻部隊の第117震洋隊があった。震洋とは艇首部に炸薬250kgを搭載した小型ベニヤ板製モーターボートで、米軍上陸船団に体当たり攻撃することを目的とした。
しかし、防御は極めて脆弱で米軍の機関砲弾を1発でも被弾すれば爆発炎上した。その結果、戦果をあげることなく戦死と訓練中の事故死をいたずらに増やしただけで敗戦を迎えた。

特攻モーターボート基地は造船所裏の岸壁の防空壕内にあった。戦後は総ての施設は撤去されたが、防空壕から透明なエメラルドグリーの海中へ伸びるレールだけが残っていた。それはシュールな不思議な光景だった。

大堂津には白砂青松の美しい海水浴場があった。

その風光明媚な町には至る所戦争の痕跡が残っていた。
鉄道の鉄橋には米軍機による機銃掃射の穴が無数に残り、海水浴場の沖合にはイ号潜水艦が座礁していた。
年長の子供たちは、潜水艦まで泳いで行き、船内から錆びた缶詰などを拾って来た。当時は甘いものが貴重品で、果物の缶詰を見つけると子供たちは大喜びしていた。

間もなく朝鮮動乱が始まり、軍需物資の非鉄金属は不足し高騰した。鉛、銅、真鍮と非鉄金属の塊だった潜水艦は、外から来た業者によってあっという間に解体されて消えた。

私たちも銅線や鉄くずを集め、毎日、荷馬車で買い取りに来る金属業者に売って小遣いを稼いだ。年寄りの中には大量の古銭を業者に売る者もいた。都会なら骨董価値のあるものを計り売りはしないが、大雑把な土地柄でそこまでの考えは及ばなかった。

戦後10年を経ても、大堂津には進駐軍の威光は及ばず、軍国主義が色濃く残っていた。小学校では元旦に登校して、校長の合図で一斉に皇居遥拝をした。私たちは皇居遥拝の意味は全く知らなかったが、その後に配られる紅白の饅頭を楽しみに元日登校をしていた。

昭和30年、大陸で囚われていた兵士が帰還した。
彼は町の英雄で、町長を始め町民全員が幟を立てて駅まで迎えに行った。たすきがけの復員服姿の元兵士は駅前広場で直立して凛々しく敬礼した。町民は熱狂して万歳を繰り返し、兵士の後についてゾロゾロと家までついて行った。

私を含め子供たちは帰還した英雄に半ば興奮状態だった。
翌日、私たちは元兵士の様子を見に行った。
兵士は汚れた仕事着に着替えドロドロになって懸命にブタの世話をしていた。

「ただのおじさんじゃ。」
私たちはがっかりした。
昨日の凛々しさからの変貌した姿に私たちの熱狂はすぐに醒めた。

彼の心情が分かったのは大人になってからだ。
大陸の収容所で彼は日夜、郷里に残した老親たちの苦労をいつも想っていたのだろう。
だから、帰還すると真っ先に家の仕事をして老親を助けたのだと思う。

画像は「おおおとこエルンスト」の挿絵

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