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2012年6月16日 (土)

劇団七曜日の宣伝美術をしていた頃。12年6月16日

画像は21年前、劇団七曜日の宣伝美術をしていた頃、描いたポスターだ。
劇団主催の渡辺正行氏は26年前から、渋谷・道玄坂の「La.mama」で若手芸人さんたちの発表の場「ラ・ママ新人コント大会」を開催している。


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ポスターのスペシャル大会はそれを集大成したもので、サンシャイン劇場の大ホールで開催された。

その頃、彼はコント赤信号のリーダーで、私たちは彼を「リーダー」と呼んでいた。
そこから出た芸人さんの多くは今も活躍している。
ウッチャンナンチャン、ピンクの電話、ダチョウ倶楽部、爆笑問題、海砂利水魚(くりぃむしちゅー)、
バナナマン、スピードワゴン、オードリーなどがそうだ。

質の高い大会で、このポスターにある芸人さんの殆どは今も生き残っている。
この前年のスペシャル大会には大阪からダウンタウンが新人として出演した。サンシャイン劇場の満員の観客を前に、緊張で真っ青な顔で、初々しく演じていた彼らが懐かしい。

このポスターの大会では爆笑問題が最高に面白かった。
終わった後の打ち上げでは爆笑問題の太田氏が末席にいた。
「君たちが一番良かったよ。絶対にビックになるから、頑張ってね」
私は彼の前に行ってため口で褒めた。
「ありがとうございます」
彼はかしこまって、深々とおじぎした。

それから、いつ表舞台に出て来るか楽しみにしていたが、なかなか目が出ず、深夜放送で時折目にするだけだった。
それが今は、テレビで見ない日はないほどに大活躍している。
当然なことだが「ビックになる」と言った私を彼らは覚えていないだろう。

その頃ウッチャンナンチャンはとても売れていて、打ち上げでも中央に座っていた。
私はミーハーに彼らからサインをもらった。
今思うと、このチラシに出演者全員のサインを書いてもらっておけば高額な値がついたのに、と少し残念に思っている。

後日、コント大会のポスターから注文が来て、大きくキャンバスに描き直した。
題名は「誰でも一生に一度は主役になれる」とした。
テーブルの羽ブタが、これから皆に食べられるのに主役になれたのが嬉しくてたまらない、と言った絵だ。

実は、羽ブタのモデルは大工をしている知人の二代目だ。
彼は若はげで20代からカツラを被っていた。そのことは近所の者は誰でも知っていたが、本人は気づかれていないと思っていた。

彼は子供の頃から民謡をやっていて、張りと伸びのある声はがプロ並みに上手かった。
彼が25才で結婚した時は近所の大評判になった。彼は披露宴で10回も自前の羽織袴で衣装直しをして民謡を歌いまくり、一世一代の独演会にしてしまった。

「お嫁さんの衣装替えは3回だけだったのにね、あと目立つとすれば葬式だけだよ」
しばらくの間、近所の口さがない小母さんたちの茶飲み話にされた。

母が死んでから間もなく、彼の近所の知人宅を訪ねたことがあった。
父親の跡をついで大工になっていた彼は、自宅1階の作業場で柱にカンナがけしていた。彼はすでに50代半ばで年相応にシワも増えていたが、不釣り合いに黒々とした豊かな髪を、きっちり7,3に分けていた。

「昔と少しも変わらないね。」
声をかけると、彼は口元を歪めるように笑った。
カツラを皮肉ったと誤解されたのではと、私は一瞬ドキリとした。

訪ねた知人に話すと、
「まだ気づかれていないと思っているみたいだよ。多分、死んでお棺に入っても被ったままじゃないの」
知人は今更外せないだろうと言った。
彼の子供たちも孫たちもカツラを取った姿を見たことがない様子だ。
その徹し切った執念にはすごみさえ感じた。


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