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2012年9月 8日 (土)

絵画理論と死生観の考察。12年9月8日

絵について・・・鮮やかで輝くような赤を表現する時、高価な輸入品の赤い絵の具をキャンバス一面に塗っても、輝くようには表現できない。しかし、キャンバスを青みを帯びた暗い色で塗りつぶし、そこに小さな赤を置くと、それが安価な粗末な赤でも輝くように鮮やかに見える。

生死についても同じように考えている。生のみが満ちあふれていても、本当の生きている喜びは感じない。死への予感があって始めて生の喜びを感じる。

ガンノイローゼだった頃、問題なしの検診結果が出ると、溢れるような生きている喜びがあった。絵も音楽も文学も科学も料理も、その根底に同じものが流れているようだ。

米国映画は世界でヒットする。そのことについて興味深い逸話があった。米国の制作会社はシナリオをオープンに募集している。その時、作品の概要を28ワードで表現させて提出させる。そして、概要に、笑いと涙が表現されていれば一次審査を通過できる。人は喜びと悲しみがあって感動ある人生を送れるようだ。

しかし、自分の死は難題だ。
自分以外の者の死はとてもよく理解できるが、自分の死だけは分からない。苦しみが限界を越えると脳内麻薬が放出されて多幸感の中で死を迎える・・・と思っていても、戻ることない自分の死を理解するのは難しい。

老いに一歩足を踏み込んだ今、毎日は長い長い階段を上り続けている感じだ。延々と上り続けるに従い疲れ果て、もういいと足を止めた時が死だ。その人生に疲れ果てることが、死を素直に受け入れるために、とても大切な要素かもしれない。

孤独死は、疲れ果てる要素を満たしている。
ある意味で、恵まれた終末期を迎える人よりも、死を素直に受け入れられるのかもしれない。この考えには論理の破綻を感じるが・・・間違いない事実ではある。

画像は赤羽駅近くのイトーヨーカ堂。
空にそびえる偉容はまさしく資本主義社会の神殿に見える。
しかし、そこに救済はなく、満たされない渇望を生むだけだ。

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