過去の風景を残す路地を通り抜けることはなくなった。12年11月24日
曇り空で夜明けが遅い。朝6時を過ぎてようやく明るくなって来た。ベランダに面した寝室は17度で北向きの仕事部屋は14度。仕事部屋隣の台所で調理を始めたら、すぐに16度に上がった。これくらいの気温なら首と足先を暖かくするだけで暖房なしでも平気だ。
子供の頃は一般家庭にストーブはなく、暖房器具は火鉢とまめタン炬燵くらいのものだった。だから、南九州でも冬の室温は10度以下が普通だった。
上京して芸大に滑ってから十条の彫金師に弟子入りした。その頃にコロナの反射式石油ストーブが普及し始めて、彫金師の職場は暖かく快適だった。
始めは住み込みだったが、2年後にアパート暮らしを始めて赤外線炬燵を買った。安アパートに帰り、敷き布団に1人用炬燵を置いて掛け布団をかけて潜り込むと、暖かくてとても幸せな気持ちになった。その1人用炬燵は今も47年間愛用している。
いつもの散歩道に決して通らない路地がある。
その細い路地奥に旧居があった。その家に引っ越して来たのは40年前。当時は古い木造の家ばかりだった。路地に入りるとすぐに三角形の空き地があり、それに面して小さな食品店があった。女主人は愛想のいい人で、豆腐や揚げが美味しいからと母はよく買っていた。
当時はどこの町内もそのような小さな食品店があり、朝の味噌汁の具や弁当に添える佃煮などが切れている時、駆け足で買ってくるのに重宝していた。
引っ越してすぐに九州の兄と同居していた祖母を引き取り母と二人で介護して、二年後に在宅で看取った。その兄はその1年後に急死した。今は施設に入り病院で看取るのが普通になったが、当時はそれが一般的な老人介護だった。
私は若く、介護の知識も覚悟も皆無で、看取ってからそのことを深く後悔し反省した。その経験をその後の父の介護に生かすべきだったが、父の看取りにおいても不十分だった。それから20年後の母の介護では祖母と父の経験が生きた。だから母は完璧に近い介護を受けられて、とても幸せだったと思っている。
母が車椅子生活になって間もなく、その入ることのない路地に10年ぶりに連れて行ったことがあった。母は昔のままの風景に出会って、タイムマシーンにに乗っているみたいだと喜んでいた。
通り抜けたのはその一回だけで、今も通り抜けることはない。その通りに入ると元気な母が「マー元気だったの」とひょっこり顔を出すような気がして、その幻想を打ち消したくないからだ。
最近、豊かな人、家族に恵まれた人への羨ましさがなくなった。穏やかな一生は自分にはほど遠いことだし望んでもいない。先日も書いたが、人はどのような生き方をしても最後は荒野を歩く他ない。
しかし、荒野が時折見せる夕日や寒い曇り空の合間に微かに見える青空などに一瞬だけ深い安らぎを覚える。その一瞬のおかげで、荒野を行く勇気がくじけずに済むのかもしれない。
先日、赤羽自然観察公園で母の知人と会った。毎日その公園来ている彼女は母と立ち話した日溜まりにさしかかるといつも母を思い出すと話していた。その言葉に不意打ちをくらったような哀しみがこみ上げた。
仕事は自分にむち打つように続けている。その作業は喜びとはほど遠くゴールを目指す長距離ランナーの苦しい心境に似ている。
紅葉の始まった赤羽自然観察公園。
近所の御諏訪神社下の夕景。
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