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2012年12月 7日 (金)

冬の蝉 12年12月7日

今日は床屋さんへ行った。
「今年は景気が悪いですね。おとついはお客さんが一人もなかったです。開業してから始めてのことですよ」
床屋さんが頭をあたりながらこぼした。
理髪業から若者が離れ、更に1000円床屋が増えた影響だろう。そう言えば、床屋さんで出会う客は顔なじみの年寄りばかりになった。私は40年前の先代からお世話になっている。今の二代目にも死ぬまで頭をあたってもらいたいが、互いに確信できない歳になってしまった。

あたってもらいながら、昔の賑やかな年末の話しになった。大晦日の床屋さんには客が200人近く詰めかけ、終わるのは午前3時頃だった。それから銭湯へ行って1年の垢を落として正月を迎えていた。彼が懐かしそうに話すあの時代は、貧しさを吹き飛ばすような活気があった。

時代は猛スピードで過ぎて行く。新しいものを次々と手に出来る元気な世代には楽しいが、老いたり病んだりすると取り残されるばかりで寂しさだけが残る。

取り残される者たちの救いは思い出かもしれない。
繰り返し想い返すことができる記憶は素晴らしいものだ。先日見た、TVドラマの夏のシーンでツクツクホーシが鳴いていた。ツクツクホーシの声を聞くとすぐに子供の頃の情景を思い出す。夏の終わり、遠くまで遊びに行った帰り道でいつもツクツクホーシが降るように鳴いていた。この声を聞くと秋は間近で、柿が甘くなった。

TVドラマでツクツクホーシの声を聞いた後、ふいに来年夏にこの声を聞くことが出来るだろうかと思った。よく母は冬の自然公園で桜や土筆の話しをしていた。その頃は単純に暖かい春を待っているだけと思ったが、本当は生きていられるだろうかと母は思っていたのだろう。この不確かな未来を想う感覚はとても寂しい。

蝉の声には時間を飛び越えさせる力がある。
40年前、浅間へ向かう途中に碓氷峠を上る列車で聞いたカナカナ蝉の声は今も心に深く残っている。今は新幹線開通で信越本線は横川止まりのローカル線になってしまったが、当時は華やかな主要幹線だった。当時は途中駅の横川に着くと乗客は競って峠の釜飯を買った。

それからは断続的にトンネルの続く急な上りを電車はゆっくりと進んだ。トンネルをくぐる都度、深山の山肌が現れ、上方に廃線になったアプト式鉄道のレンガ作りのアーチ橋が見えた。列車のスピードは遅く、開けた窓から沢あいの木立で鳴くカナカナの声が聞こえた。

アプト式鉄道とは急坂を上る為に歯を刻んだレールを線路内側に設けて、電気機関車の歯車を噛み合わせて上る方式だ。大量輸送には不向きで、すぐに平行して新線が設けられた。その新線も新幹線開通で碓氷峠部分は廃線となった。

碓氷峠中程には熊の平駅跡があった。明治時代に最初に開通した時は給水給炭所として、戦前に電化してからは熊ノ平変電所として使われた。私が旅で通る頃は廃止されて通過駅になっていた。

様々な青春の情景がある中、繰り返し想い浮かぶのはこの碓氷峠だ。今となると、消えてしまった車窓風景を記憶していることは実に幸せなことだ。

住まい玄関からの雲取山夕景。この右手遠方に碓氷峠はある。既に積雪し、沢は凍り始めていることだろう。

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