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2013年4月22日 (月)

家で親を看取る。母の希望に従い、一人で在宅で看取った経緯。13年4月21日

高齢化対策として、国は病院での死から在宅看取りへと、大きく方向転換した。
しかし、適切な在宅医療手助け対策がないと、逝く人にも看取る家族にも厳しい転換になってしまう。

NHKスペシャルで、延命治療中止を取り上げていた。
2025年までに75歳以上の高齢者が最も増加する横浜で、老衰の親を在宅で看取ることに悩む家族を取材していた。
そのご家族たちと比べ、私が在宅で看取った祖母・父・母・三人の介護は楽だったかもしれない。なぜなら、生前、繰り返しどのように死ぬか本人と話し合い、死を穏やかに迎えられるように、徹底的に寝たっきりを防いだ結果だ。
最後に死んだ母については食事と運動で血管系を強化し、好奇心を衰えさせないように毎日散歩へ連れ出した。母の介護と看取りでは、父と祖母の経験が役立ち、母は在宅で静かな死を迎えることができた。

母の死の7ヶ月前、2009年11月。
友人から電話があり、母の様子を聞かれた。
「96歳になった。最近、急に弱ったが、入院はさせず、在宅で看取ることにしている」とこたえた。
彼は九州の母親を94歳で亡くした。
その頃、彼は東京での仕事が多忙で、殆ど見舞いに行けなかった。
彼はそのことを後悔していた。

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写真-1、死の一ヶ月前、2010年5月。
母は死が間近だと感じ、自分の死について口にすることが増えた。

写真-2、死の13日前、6月18日。
公園の手すりづたいに歩かせるリハビリをしていた。
しかし、この日は足が萎え、母は努力したが、どうしても立てなかった。
母はいつもより口数が減った。
もう歩けないと、深い喪失感に捉われているように見えた。
それまでも立てないことはあったが、何とか努力して立ち直って来た。
今回は私も母も、今までとはまったく違うと感じていた。
今思うと、死が身近に迫っていると母が覚悟したのは、この時だった。
その前夜、涼しい夜だったのに母は寝汗をびっしょりとかいていた。死別してから分かったことだが、私は迂闊にもそれが心不全の症状であったことを見逃していた。しかし、分かっていたとしても結果は変わらない。ただ、リハビリにおいて叱咤激励はしなかったと思っている。

死の10日前、6月21日。
朝、母の右踵が赤くなっていた。どこかにぶつけたのだろうと思った。
・・それは数日後に赤黒く変化した。心臓が弱り血行が悪くなってできる辱瘡だった。褥瘡の特効薬プロスタンディン軟膏を塗ってガーセで覆うとすぐに治った・・
家庭医に午後の往診を頼み、10時にケアマネージャーに介護ベットの手配をしてもらった。
お昼まで、介護ベットを入れる為に部屋を片付けていると、母が寝たまま粗相をした。元気な頃なら、母自身が動いてくれるので、さほど手間はかからない。しかし、弱った母は横になったままで、清拭は大変な作業になった。

午後、往診した医師が酸素飽和度を測ると72。
心不全から肺が浮腫み酸素交換が巧く行っていないようだ。
「すぐに入院しなければならない危険な状態です」
医師の深刻に話した。
言われた通りに入院すれば、少しは改善するだろう。しかし、母のQOLは著しく低下して、更に辛い終末期を迎えることになる。
「入院治療すれば心臓は一時的に回復するかもしれません。でも、それ以上に失うものは大きく、回復した心臓もすぐに悪くなります。だから入院はさせません」
悪化覚悟で家においておくと答えると、医師は困惑していた。
母が元気な頃、在宅で死ぬことを何度も話し合ったと医師に話した。医師はやっと納得した。
「在宅で、できるだけのことをしましょう」
医師はすぐに酸素吸入とタン吸引機を手配してくれた。
夕方に、小型の冷蔵庫程の酸素濃縮機と外出用の酸素ボンベが届いた。
装着すると母の呼吸は少しだけ楽になった。しかし、母の顔は呼吸不全のため浮腫んで紅潮していた。

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写真-3、死の7日前、6月24日。
母の意識がなくなった。緊急に往診してもらうと、医師は心電図を取りペンライトで瞳孔の反応を調べ、丁寧に聴診器をあてた。医師は私を部屋の外へ呼び、深刻な顔で言った。
「お母さまは、正直申し上げて、今夜危篤になられてもおかしくない状態です。それでも、在宅をご希望ですか」
私の決意にゆらぎはなかった。
「危ないのなら、なおさら在宅で看取ります」
母も同意見だったと答えた。
母が意識不明になったのは、ナトリウム濃度の低下によるものだ。原因は、前日、その時始めて来た若い医師が処方した利尿剤のラシックスの副作用だった。ラシックスを処方された時、以前問題が起きたことを伝えた。
「それはケースバイケースです」若い医師は私の言葉を否定した。
しかし、この結果を招いた。

その日はいつもの医師が往診した。
すぐに点滴でナトリウムを補填すると母は見る間に意識を取り戻した。
母は重篤には違いないが、短期間なら元気にする自信があった。
医師が帰るとすぐに、長城清心丸四分の一片を漢方強壮ドリンクで飲ませた。
長城清心丸主成分の牛黄は強力な強心作用がある。
効果は覿面で、夕方には母は元気になり普通に会話し、ベットからテーブルまで移動して、ほんの少しだけ自力で夕食を食べた。
しかし、今まで経験したことがない悪化した雰囲気が母にあった。
母が逝くのは今夜かもしれない。
運良く夏を越せたとしても、年末を迎えるのは絶望的だと思った。

深夜様子を見に行くと、
「あら繁、元気だったの」
母は私を死んだ繁兄と間違えて、満面の笑みを浮かべた。
三十五年前、中学教師をしていた繁兄は学校で脳出血で急死した。
その時も、それからも、母は私たちの前で一度も嘆いたことはなかった。
しかし後年、母の車椅子を押すようになってから「布団の中で何度泣いたか分からない」と始めて打ち明けた。
終末期になっても、母はずーっと繁兄に会いたかったのだろう。
私は黙って母の頭をなで続けた。

死の6日前、6月25日。
点滴をするため往診した医師は母が受け答えする程に元気になっていて驚いていた。
「先生のおかげです」
礼を言うと、若い女性医師は照れ臭そうに笑顔になった。
もし、母を緊急入院させていたら、今頃はチューブだらけになっていたはずだ。母はコップ一杯の栄養剤を飲ませるにも、誤嚥を防ぐため少量ずつ10分以上かかる。食事全体となると、休み休み小1時間はかかる。病院では一人の患者にそれだけの手間をかけるゆとりはない。
結局は点滴や胃瘻で栄養を摂ることになる。その上、病室に一人で放っておかれて、孤独と絶望で母は急速にボケが進行してしまう。しかし、在宅の今なら、毎日見舞いに来てくれる近所の人たちと母は会話を交わし、心のままに別れを告げることができた。

夜、介護ベットの母の上半身を電動で起こした。星空と月が見えると母は喜んでいた。床ずれ予防の電動エアマットは動いているのが分からないほど静かだった。
口がきけるうちにそれだけは伝えておきたいと思ったのだろう。
「いつも世話してくれて、本当にありがとう」
母は何度もお礼を言った。
母の気持ちを思うと切なくなった
母の体調は一日の中で良くなったり悪くなったり大きく変化した。
意識は混濁しがちで、私のことが分からなくなったり、意識が戻ったりした。
深夜でも私は母の容態が気になって何度も目覚め、様子を見に行った。

死の5日前、6月26日。
朝、車椅子に酸素ボンベを付けて母を乗せ、13階の玄関前通路を行ったり来たりした。母は手すりの間から、遠い奥秩父の山々を眺めながら、気分が爽やかだと心から喜んでいた。

午後は大型犬の小次郎君が飼い主のKさんに連れられて来た。母は大喜びで、ベット脇まで来た小次郎君の名をしっかりした声で呼び、頭を撫でていた。こんなに喜ぶのなら、早く会わせてあげれば良かったと後悔した。
深夜、再び意識が混濁し始め、母は呼びかけに反応しなくなった。息も浅く苦しそうだ。不安になって、親しくしている上越の内科医のSさんに電話を入れた。Sさんは死に間際には呼吸も脈拍も不規則になると丁寧に話してくれた。母の呼吸と脈拍は弱いなりに安定していたので、すぐに逝きそうにはないと安堵した。

死の4日前、6月27日。
朝から母の意識は混濁したままで、意識は戻らなかった。水分不足が怖いので、大きな声で目覚めさせ、綿に含んだポカリスエットを少しずつ飲ませた。

深夜、突然に猛烈な眠気に襲われ、椅子に座ったまま15分ほど寝た。
夢の中で、母が笑顔で話しかけた。
「何だ、元気だったんだ」
そう言っている所で目覚めた。
何かあったのではと、急いで母の様子を見に行くと、呼吸は小刻みで浅く苦しそうだった。
点滴で皮下出血だらけの手首の脈を取ったが殆ど触れない。胸に耳をあてると、早い拍動が聞こえた。
いつまで母は耐えてくれるのだろうか。もしかすると今夜、私が寝ている間に逝くかもしれない。
「いつも、近くに居るからね」
髪をなでながら話しかけると、母は微かにうなづいた。

死の3日前、6月28日。
母は朝から食べ物も水も口にしない。吸い飲みで口へ注いだ小さじ一杯の氷水を、苦労しながら飲み込むと、後はいらないと首をふった。
水分は、午前中に生協浮間診療所から看護婦さんが来て、抗生剤入りの点滴を200mlほどしただけだ。それでも今日は1日中、意識がはっきりして元気そうに見えた。一時的に身体の必要量のバランスが取れているからだろう。
終末期は本人が望まなければ、無理に飲ませたり食べさせない方が本人は苦痛が少ないと聞いていた。もし、水分を無理に摂らせると心臓や肺が浮腫んで辛くなる。しかし、この異常なバランスはすぐに破綻する。

「口から食べている限り、人は死にません」
昔、在宅で祖母と父を看取った時の老医師の言葉を思い出した。終末期に入ってから、老医師は輸液などはせずに本人の望み通りにしていた。だから、殆ど苦しむことなく逝った。
母の言葉は口の中でこもり、聞き取りにくくなった。しかし、私が話しかけることはよく分かり、小さくうなづいてくれた。タンの排出機能が弱り絶えず絡むので吸引を繰り返した。カテーテルを深く差し入れて吸引したが、僅かな透明な粘液だけだった。母の意識は戻ったり遠くなったりしていた。
深夜も、2時間毎に様子を見に行った。
午前2時頃に行くと、母は穏やかな顔のままハラハラと一筋の涙を流した。私は黙って涙を拭いた。涙はそれで止まった。その時も、その前も、その後も、母は悲しそうな顔を一切しなかったのでとても不思議な涙だった。
二ヶ月前に私と同年代の絵描き仲間が急死した。
未亡人に最期を聞くと、彼も死ぬ前に一筋の涙を流した、と話した。
母も彼と同じように死を覚悟して、万感迫り、涙を流したのかもしれない。
母が私の前で泣くのを見たのは、それを含めて生涯で二度だけだ。
もう一つの涙は今年3月、絵が売れて生活危機を乗り越えられた、と伝えた時だ。それまで母はノー天気に贅沢を言って困らせていた。しかし、本当は私の苦境をよく分かっていたようだ。朗報を聞くと、母は声を出して泣いた。

死の2日前、6月29日。
朝、母は丸くなっていた腰が延びて背が高くなっていた。
母の元々の身長は百六十三センチと昔の女性としては大きい方だ。
借りた女性用介護ベットは小さく、窮屈に見えた。
腰椎が五個も圧迫骨折している状態で、腰が伸びれば二度と立てない。
それは母も分かっていたようで、声をかけても無反応に遠くをぼんやりと眺めていた。
その時、母の死が間近だと強く感じた。
母は目を開けていながら意識は遠かった。
それでいて神経は鋭敏で、声をかけるとハッと私を見た。
脈はまだらで、所々抜けた。
すでに最終段階に入ったと、覚悟した。

深夜になっても母は眠らず、壁の一点を凝視していた。
「何が見える」
聞くと「とても、綺麗」と笑顔になった。
「どこか、苦しくないの」
聞くと「少しも、苦しくない」と微笑んだ。
見えたのは臨死体験で登場する、色とりどりの光のようだ。
最終段階に入り、脳内麻薬のエンドルフィンが放出されているのだろう。
母に付き添っていたいが、片付けものがある。
逝った後では、つまらないものでも捨てられなくなる。だから毎日、母に関わるものを大量に捨てた。
今夜は、母用のトイレ用設置型手摺を分解してベランダに置いた。手摺が邪魔して掃除ができなかったトイレ床の奥を石鹸水で洗った。便器もパイプもピカピカに磨いた。10ヶ月前から、母はベット脇のポータブルトイレを使っていて、トイレを使うことはなかった。それでも手摺を片付けなかったのは、回復の希望を持っていたからだ。
今は何もしないでいると、哀しみが間歇泉のようにこみ上げた。だから、休みなく動き回った。食事も立ったままで済ますので、いつ食べたのか記憶にない。役にも立たない老親なのに、なぜこんなに哀しいのだろうか。

死の前日、6月30日。
「お一人でお母さまを看ていて、不安はありませんか」
午前中、点滴に来た看護婦さんが聞いた。
「覚悟していますので、不安はありません。今は毎日、見舞客が来てにぎやかです。しかし、逝ってしまったら世間から忘れられて、辛くなりそうです」
そんなことを話すと看護婦さんは真剣にうなづいていた。この診療所の若い看護婦さんたちは、昔の青春映画に出て来るような優しく健気な人が多い。

午後は母の死の準備をした。
銀行へ行ってお金を下ろし、管理事務所でエレベーターのトランクルームの鍵を借りた。母の棺を乗せる時、そのドアを開けると長さが確保できる。今から借りておかないと間に合わない。

夕暮れ、母は一瞬元気になって何か食べると言った。
この5日ほど殆ど食べていない。
肺炎予防の抗生剤とともに、僅かなブドウ糖を点滴しただけだ。
喜んでお粥を作ると、サカズキ一杯ほどで食べた。
しかし、すぐに食べるのを止め意識が遠くなった。
誤嚥したのでは、と慌てて吸引したが、いつもの僅かな粘液だけだった。母は一瞬気分が高揚して、ご飯を食べてみたが、身体は受け入れる能力がなく急変したようだ。
このまま死なせたくないので、母の胸を押さえながら声を出すように言った。母は「あああ」と声を出しながら息を吐いた。そのような簡単な人工呼吸を3時間ほど続け、やっと自発呼吸ができるまでに安定した。
「口から食べている限り、人は死にません」
昔、老医師から聞いた言葉が蘇り「もうだめか」と思った。

臨終の日、7月1日。
午後1時、診療所から医師が往診に来た。頼んでいた口全体を覆う酸素マスクを装着すると、酸素飽和度が70から一気に90へ回復した。しかし、一昨日採血した検査結果は心不全の悪化を示していた。
「水分を摂りますと心肺が浮腫み更に衰弱しますので」
医師は点滴をせずに帰った。
終末期に医師ができることは殆どない。
チューブだらけにして命を長らえさせても、苦しみを長引かせるだけだ。

午後2時、母をお隣の奥さんに頼んで、買い物へ出た。
知人に会い母の危篤を話すのが辛いので、人通りのない師団坂を登り東京北社会保険病院を抜けて帰った。
「帰ったよ」
大きな声をかけると、母はかすかにうなづいた。耳は聞こえているが、答える力がない。衰弱してからは、小さな表情の変化で気持ちが分かるようになった。

午後4時、タンが絡むので何度も吸引した。心音は乱れ弱々しい。別れを覚悟すると涙があふれ、畳にポタポタと落ちた。
午後6時、限界まで深くカテーテルを差し入れて吸引しても僅かな粘液だけで呼吸は改善しない。タンの吸引はとても苦しく母の負担が大きい。呼吸音に乱れがあっても何もせず、静かに見守るだけにした。

後日、内科医のSさんに聞くと、その状態は肺の粘液が泡状に肺胞まで広範囲に広がっていて、吸引は殆ど役立たなかった。苦しみは生体が生理的に反応しているだけで、意識が薄れている本人は見た目ほど苦しくはない、とのことだった。
ダメと分かったら医師は呼ばず、一人で見送ろうと思っていた。もし、医師や救急車を呼べば、慌ただしく蘇生措置がとられ、母は静かな最期を迎えられないからだ。
聴覚は心肺機能が停止しても、最期まで保っているので絶えず声をかけた。
「十分に頑張った。もう、ゆっくり休みな」
母の手を握り、髪を撫でながら声をかけ続けていると、やがてあえぐように肩でしていた呼吸は弱くなって止まり、母の表情が優しく変化した。胸に耳を当てると、呼吸停止から30秒後の6時30分に心音が消えた。すぐに顔から血の気が失せ、手足も完全に命を失った。半身をもぎられたような喪失感が襲い、かって経験したことがない激しい悲しみがこみ上げた。

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すぐに、診療所へ電話を入れた。
どうしても母が死んだと言えない。
絶句していると「お亡くなりになりましたか」と看護婦さんが聞いた。
私は絞り出すように「はい」と答えた。
15分ほどで医師と看護婦さんが駆けつけた。丁寧なお悔やみに受け答えするのがとても辛かった。医師の死亡確認時刻は6時55分。明日、白菊会に献体するので、今夜中に死亡診断書作成を頼んだ。
哀しみが幾度も幾度もこみあげた。
生涯、これ以上の哀しみは訪れないだろう。
哀しみを振り払うように台所や部屋を片付け続けた。
母との約束で、新橋の店で働いている姉には、店が終わるまで伝えないことにしていた。

お隣に母の死を伝えると、ご夫婦で大きな白百合の花束を持って見えた。危篤になってからの顔のむくみは死によって引いて、母の顔は元気な頃のように穏やかに変化した。奥さんに手伝ってもらって身体を清拭し、口が開かないように包帯を巻き、薄化粧をした。
大正2年8月24日生まれ、享年96歳と10ヶ月。波瀾万丈の生涯だった。
「どう、7月1日に死んでみせたでしょう」
母は威張っているように見えた。
祖母は5月1日。父は6月1日。これでどの命日も覚えやすくなった。飲み食いから排泄まで、人手に頼る寝たっきりは7日間。危篤になってからも2日。やつれていないのが救いだった。

これは伝統的な自然死だ。
病院に入れていたら、骨と皮になるまで無理矢理生かせ続けただろう。
ちなみに母は死の8年前に肝臓ガンの手術をした。ガンの取り残しはあったが、母はガンではなく心不全で死んだ。
医師を呼ばず、一人で看取るのはとても辛いことだった。
しかし、静かに母の最期の吐息と心音を聞くことができたのは、子供としてとても幸せだ。
老衰でも、どんな病でも奇跡はある。
奇跡的に生き延びたとしても、それは一瞬の長さで、死は必ず訪れる。僅かに生き延びるために苦しく多大な努力をするより、私は静かに人生を全うして死を迎えたいと思っている。

欧米では終末期に入って、口から食べられなくなったら、苦しみを長引かせるだけの延命治療はしない。そして、住み慣れた自宅で死ぬのが大多数だ。延命については患者の頭が明瞭で意思表示ができる場合もあり、ケースバイケースだ。自然死は苦しみが少ない最期の迎え方とされている。もし無理な延命をすると、多幸感をもたらすエンドルフィンの分泌機能が疲弊し、苦しくて長い終末期を迎えることになる。

つけ加えると、母が数多く残した「ありがとう」の言葉に、3年後の今も救われている。
私が一人で母を介護して看取ることが出来たのは、ご近所の素早い手助けと、深夜でも親しい医師から適切な助言を得られたからだ。
政府の新しい方針において、その二点を公的に充実させないと、在宅での看取りは苦しみを増大させるだけになる。

最後に、一人での母の介護はとても大変だったが、死別した後の喪失感の方が、その何十倍も辛かった。十分に介護したからとか、大往生だったから辛くないだろうと世間では思われているが、私は死ぬまで引きずって行くと覚悟している。
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絵本の内容・・おじいちゃんのバス停・篠崎正喜・絵と文。老人と孫のファンタジックな交流を描いた絵本。
おじいちゃんは死別した妻と暮らした家に帰ろうとバス停へ出かけた。しかし、家は取り壊され、バス路線も廃止されていた。この物語は、20年前に聞いた知人の父親の実話を基にしている。対象は全年代、子供から老人まで特定しない。物語を発想した時、50代の私には77歳の父親の心情を描けなかった。今、彼と同じ77歳。ようやく老いを描写できるようになった。

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概要・・初めての夏休みを迎えた小学一年生と、軽度の認知症が始まったおじいちゃんとの間に起きた不思議な出来事。どんなに大切なものでも、いつかは終りをむかえる。終わりは新たな始まりでもある。おじいちゃんと山の動物たちとの、ほのぼのとした交流によって「終わること」「死ぬこと」の意味を少年は学んだ。
描き始めたのは母の介護を始めた頃だ
絵は彩色していたが、介護の合間に描くには画材の支度と後片付けに時間を取られた。それで途中から、鉛筆画に変えた。鉛筆画なら、介護の合間に気楽に描けた。さらに、水墨画に通じる味わいもあり、意外にもカラーページより読者に評価されている。それはモノクローム表示端末で正確に表現される利点がある。

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