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2013年5月13日 (月)

NHK、メイド・イン・ジャパン「ニッポンの会社をこう変えろ」のキーワードは日本の伝統美。13年5月13日

NHKスペシャルの解説では、無意味に高品質を求めた結果、日本製品は高価格になり国際競争力を失って敗退した。しかし、昔から日本のもの作りが完全主義だった訳ではない。それについて、昔の彫金作品を思い出す。職人をしていた頃、江戸時代の彫金作品の修理する機会があった。どれも名品だったが、見えない部分はおおらかに処理してあり、近年程の完全主義ではなかった。

それが、明治後期辺りから、彫金作品の仕上げの基準は大きく変わった。それは宮内庁御用達制度と大きな関わりがある。宮内庁御用達は国内最高峰の職人仕事で、皇室に献納するために見えない部分も完璧に仕上げることが求められた。

皇室献上の米は、一粒一粒検品して絹布で磨いて納品していたと老人に聞いたことがある。絹布で磨いたのは大げさとしても、一粒ずつ検品したのは本当だ。そのような完璧主義が製造業全体に広がったのかもしれない。例えば、その時代の日本の兵器は性能に関係なく、手作業で世界一美しく仕上げられていた。

皇室から褒章される勲章制作も完全主義だった。造幣局で勲章制作に携わっていた知人から聞いたことだが、勲章の仕上げは完璧を求められ、ルーペで見て、ヤスリ目などが微細に残っていても、仕上げ直しを求められていた。余談だが、そのように作られた日本の勲章は骨董市場で、今も人気が高い。

完全主義は明治以降の政治体制と大きな関係があるのかもしれない。江戸期までの日本人の美意識はおおらかで、ゆがみや傷を愛でる感性が主流だった。それは、絵を描く時の、おおらかな制作姿勢に通じる。日本本来の美意識では、主要なテーマには精緻な完璧さを求めるが、本題ではない部分はおおらか作っていた。

しかし、メインテーマに対する美意識は極めて厳格で、普通の日本人でも、漆喰の白・和紙の白・絹布の白・と質感で無数に分類することが出来た。この繊細な感覚は世界でも突出している。

今、日本の製造業の反転攻勢に必要なのは、茶室などの伝統建築・織物・器など、日本独自のもの作り精神だ。例えば、今、京都の古い町家が注目され、売買価格が高騰している。町家を改装した宿が欧米やアジアの富裕層に人気があり、供給が逼迫しているからだ。

町家の魅力は、電気製品で失敗したような多機能な完全主義ではない。機能はシンプルだが、最高度に洗練された美しさと快適さがある。ここに、もの作り復活のヒントがある。伝統的な感性で作られた日本製品なら、ドイツの高級車と同じような競争力を持つかもしれない。

この感覚は、今、米国が国策として押し進めている3Dプリンターによる生産にも生きる。3Dプリンターがあれば誰でも優れたもの作りができる訳ではない。製品の設計図を作るにも、素材の選択にも繊細な感覚が必要で、その分野の総合力では日本人は優れている。

3Dプリンターの実用化で成否を決めるのはプラスチックや金属、セラミックなどの素材にある。番組中で、素材の特性を知り尽くした国内の製造業の技術者たちは、同じ3Dプリンターを使って、海外勢より優れた製品を作ることができる、と自負していた。

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近所の浮間橋。お年寄りには辛い上り坂だ。

昨日の中国の最低賃金が上昇を始めたとの新聞ニュースの片隅に、人手に頼らない自動機機の導入が進んでいる、とあった。すでに、中国の生産現場では自動機機導入が進んで2000万人が失業している。その一方、旧聞になるが、将棋の人とコンピューターの対戦でコンピューターが勝利したことにも大きな変化の芽を感じる。

この二つの変化は、人の生き方自体へ大きな問題を提起している。人は特別な存在ではなく、機械的なシステムを高度にさせたものに過ぎない。これから10年の内に、単純労働は人からロボットへ大きな転換が起きる。

S_1ヤマボウシの花。
名中心部の円い部分が膨らんで甘く熟す。

アートはロボットが一番参入しにくい世界だが、100年後は村上春樹をしのぐロボット作家が登場して、ミリオンセラーを独占しているかもしれない。

すでに、脳波を使って動かす義手や義足は試作されている。近未来では、視覚センサーからの信号をを脳へ直接送り込み、失明した人の朗報になるはずだ。

更に進めば、大型コンピューターと人の脳を直結して、誰でも高度な思考が出来るようになる。その初期形態として、携帯と基地局の大型コンピューターを結んで、自動通訳の実験がなされている。

近未来では、一生の大半を使った勉強は不要になり、受験勉強や天才すら不要になっているかもしれない。その頃は、人の脳と肉体は人工頭脳を備えたロボットより劣り、人はか弱い存在に変わるかもしれない。その時、人は何に自分の存在意義を見いだすのか、はなはだ不安だ。

そのことで、1982年公開米SF映画「ブレードランナー」を思い出した。原作はフィリップ・K・ディックのSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」である。

--人口爆発と環境悪化で、大半の者たちが宇宙へ脱出した地球。人口過密の高層ビルが密集した劣悪な都市に絶えず降り続く陰鬱な酸性雨。宇宙の移住先では、遺伝子工学で作り出された「レプリカント」と呼ばれる人造人間たちが奴隷として過酷な労働に従事している。

レプリカントたちはやがて感情を持ち、反乱を起こして地球へ潜入する。レプリカントは10年程で人工細胞がアポトーシス-自死-するようにプログラムされている。映画はレプリカントと彼らを捕獲殺害する専任捜査官「ブレードランナー」との争いを描いていた。

・・・作中の、はかない命の美しいレプリカントのレイチェル(ショーン・ヤング)とブレイドランナー(ハリソン・フォード)の恋も切なく良かった。背景の都市風景にはアジアの雑然とした光景が織り込まれ、実に怪しく美しいい映画だった。制作後30年を経た今、それはより重く人とロボットの関係を提起する作品に思える。

感情の有る無しが人とロボットの違いを表す時代が、これからも長く続くだろう。しかしやがて、その差異はなくなる。その時、人が享楽に耽り遊ぶだけの存在に変わっていたとしたら、それは何ともやるせない、虚しい未来風景だ。

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