6月1日は父の30周忌、父は虚像ばかりを追いかけて一生を終えた。13年5月31日
絵の世界は取り残されたように低迷している。と言っても、殆どの絵描きには当たり前の状態で、悩んではいない。絵描きの必須条件は、この厳しい生活に耐えられることと、それでも描き続けるポジティブな姿勢だ。それが嫌なら、この仕事は選ばないほうが良い。
昨日は和紙の立体作家が銀座で個展をしているので訪ねた。彼は国際的な売れっ子で既に8点に売却済の赤ピンが付いていた。最近は海外オークションでも、参加すれば完売している。
訪ねた時、客が途絶えていたので1時間程雑談した。彼はとても律儀な人だ。彼が若い頃、親しい出版社を紹介した。編集者は彼の作品を気に入り、すぐに彼の本が出版された。実力のある人だったので、私が手を貸さなくても世に出て行ける作家だったが、10年経ってもそのことを忘れず、会話の中で何度も感謝していた。
彼と話してると、美術市場の生きのよい情報が聞けた。どれも役立つ情報だが、画商と距離を置いている私には実行し難い。それでも、会話しているだけで楽しくなった。
体調は、気を緩めるとすぐに危うくなる。毎日、壊れた車を騙し騙し走らせている気分だ。それだけに、そのようなホッとする時間は大切だ。夜昼なく集中していた仕事を休んで、出かけて良かったと思った。
今日は梅雨の晴れ間で、爽やかな青空を見上げながら散歩した。
公園の芝生で、四葉のクローバーを見つけた。
緑道公園では、傍らの草むらで若いスズメが夢中で餌探ししていた。すぐ傍まで近づいても気づかない。「ホラホラ」と、声をかけるとビックリして、慌てた様子に笑ってしまった。
そんなささやかなことで、重い心が軽くなった。
緑が美しい季節だ。
緑道公園のこの辺りを歩くのは久しぶりで、母の車椅子を押してい頃を懐かしく想い出した。
左手奥にウワミズザクラがあり、今は房のように白い清楚な花が咲いている。花の後に実をつけ夏には甘酸っぱく濃赤に熟す。
都営桐ヶ丘団地。キバナコスモスが早くも咲いていた。奥はタチアオイ。
住人があちこちに花を植えているが、高齢化のため、眺めて楽しむ人は少ない。
写真1、タチアオイ。
この勢いのある花を見ると夏が近いと感じる。
写真2、ジューンベリー。
今年はいつもより甘く熟した。
写真を撮っていると、熟年男性に実の名を聞かれたので、食べられると説明した。
彼は背が高く、高い枝の実を摘んで食べてから、
「美味しい果実を教えていただいて、ありがとうございます」
と感謝していた。
写真3、ヤマモモの実。一ヶ月経つと赤く甘酸っぱく熟す。
明日6月1日は父の命日なので、帰りに仏壇に供えるリンゴを買った。
父と死別した時は寂しかったが、問題の多い親だったので開放感もあった。その辺りの経緯は「死ぬ程怖かった闇金の取り立てと、父の名刺の束。12年2月24日」に詳しく書いた。
父は事業欲が旺盛で、若い頃から死ぬ半年前まで、次々と会社を立ち上げた。しかし、詰めが甘く、殆どは借金を残して倒産した。借金の後始末したのは母と私だ。だから、父が死んだ時、これで借金から解放されると思った。
そのように自分勝手な父親だったのに、在宅で母と私たち多勢に囲まれて逝った。母の死も幸せだが、父も負けず劣らず幸せな死だった。本人は、「俺が死ぬ時は誰にも迷惑かけず、一人で死んでみせる」と、いつも豪語していたが、母も私も介護の放棄はしなかった。
父の死から30年が過ぎた。不思議なことに、今まで死に逝く父の心情を深く考えたことはなかった。それが今日、突然に、どんな気持ちだったのだろうかと考えた。
昔はどの家庭でも、父親は口うるさくて、子供たちには敬遠されていた。父も世間なみで、一生の間に父と会話した時間は、総計すると2,3時間くらいだろう。
しかし、父が何を考えていたかはよく分かっていた。時折、出張で留守にすると聞いて、父の前で小躍りして喜んでいる私たちを、父が複雑な表情で見ていたのをはっきりと記憶している。
今思うと、子供たちとどう接したら良いか父は分からなかったようだ。子供たちに言葉をかけようとすれば小言になってしまい、ますます敬遠され、内心では寂しかったのかもしれない。
父の元へは得体の知れない人たちが様々な儲け話を持ち込んでいた。
延岡郊外のマンガン鉱山開発や、奄美列島で採掘されたと称するボーキサイトを持ち込んだ人もいた。ボーキサイトは雨期と乾期が交互にやって来る熱帯で産出するが、奄美では産出せず、眉唾だったが父は簡単に信用していた。
中学生だった私は、父に頼まれて図書館でそれらを調べた。ボーキサイトの時は、アルミを精錬する工程を絵に描いて父に渡した。絵は大人以上に巧かったので、父はその絵を持ち歩いて出資者を募っていたが、すぐに日本では産出しないと知って、話しは消えた。多分、戦時中にパラオから持ち込まれて、戦後も野積みされていたボーキサイトを持ち込んだのだろう。
時たま、父は仕事に成功することがあった。そんな時は、骨董屋や宝石のカバン屋が出入りした。カバン屋とはバックに指輪を入れて売歩く末端の宝石商だ。
九州の田舎を回っている骨董屋はいかがわしい者ばかりだった。持ち込まれた掛け軸は、宮本武蔵が両手で描いたと称するアヤメで、父は感心して眺めていた。もちろん、二刀流だからといって両手で描くはずがない。木下 藤吉郎が旗指物に使ったと称する金ぴかのひょうたんもあったが、藤吉郎時代の旗指物にひょうたんが使われたかは知らない。いずれにしても、二束三文のがらくただったはずだ。
そんなことを想い出していると、虚像を追いかけながら一生を終えた父のことが無性に哀しくなった。それは父との死別後、始めて感じた感情だった。いつもあった父へのわだかまりは、30年の年月によって浄化されてしまったようだ。
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