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2013年6月23日 (日)

会津藩最後の家老・西郷頼母の晩年の写真に想う。13年6月23日

視聴率は上がらないが、大河の「八重の桜」を毎回欠かさず見ている。
50年近く昔、尾瀬・磐梯辺りの登山のついでに、会津辺りで遊んだ。その頃、地元の人から会津戦争の話しをよく聞かされた。その記憶が「八重の桜」への思い入れを深くしているようだ。

当時、私に語り聞かせた老人たちの親世代が会津戦争を戦った人たちだった。現代の私たちが太平洋戦争を想うように、彼らには生々しい記憶だったようだ。それについては、去年5月2日のブログ・安達太良に登山した時の思い出にも書いている。

・・・5月の連休明け、二本松の宿に着くと主人が炬燵へ迎え入れてくれた。今の五月と比べると、当時は随分涼しかったようだ。
主人は七十半ばで、頭を剃り上げ粋な羽織りを着た元気な人だった。
「お客さん、どちらから来なさった。」
東京からと答えると
「ほう、一人でよう来なさった。」と、長火鉢の鉄瓶からお茶を入れてくれた。
主人は、「二本松でも少年隊が討ち死にしたのに、白虎隊ばかり有名でとても残念だ。是非に二本松城を見て行ってくれ」と維新の戦いを、昨日の出来事のように話し始めた・・・

理不尽な仕打ちに会った会津の人たちは「会津戦争は日本の近代化に必要な避けられない悲劇だ」と簡単に片付けられなかったようだ。

ドラマの中に「武門の誉れ」の言葉が頻繁に出て来る。命を捨ててまで「武門の誉れ」を守ろうとする姿勢には、名誉のために戦った祖先の伝説が日常的に語られた背景があったのだろう。それは太平洋戦争で敗戦するまで、日本のどこにでも普通にあった考え方だ。

その時代は、死んだ人の魂が生きている人に共有され、あたかも生きている人のことのように、彼らの名誉が語られていた。その頃は、自分の一生は死によって終わらなかった。自分たちが先人を語り伝えて来たように、子孫たちも自分の名誉ある死を語り継いでくれるとの確信があった。だから、名誉のために命を捨ててまで戦えたのかもしれない。

その一方、「八重の桜」で生き残った、西田敏行が好演している西郷頼母に何故か惹かれる。彼の祖先は三河の名門で、室町後期に松平家に従い、以来、会津松平家に家老として仕えて来た。会津戦争直前、不戦恭順派の彼は一度は蟄居させられるが会津戦争で復帰した。

復帰した彼は若年の長男と共に城に籠って戦った。彼が生き残ろうとしたのは、会津が生き残る道を模索していたからだ。彼は意外に近代的な合理性を持った人だった。

維新軍が会津に攻め込んで来る前に、5人の娘と妻は城下の自邸で自刃して果てている。落城後、彼は落ち延びて榎本武揚に合流して函館で戦った。旧幕府軍への降伏後は捕らえられて館林藩預け置きとなるが、明治5年に赦免され、貧しく厳しい流浪の身となった。その間に頼みの長男吉十郎は若くして病没した。その後、彼は甥の四郎を養子にして柔術を教えた。四郎は講道館に入門して大成し姿三四郎のモデルになった。

西郷頼母に惹かれるのは、生き恥をさらしてまで生き抜いたからだ。死の三年前の70歳の彼の写真が残されているが、老いた彼の瞳が深く澄み切っているのが印象に強い。そこに深い哀しみを経て達観した苦行僧のような静けさを感じる。

流浪の間、先に逝かせてしまった妻と娘たちのことを想わない日はなかっただろう。晩年、望郷の念断ち難く、彼は会津に戻った。そして、玄関戸代わりにむしろを下げた粗末な長屋に暮らしながら、苦労して工面したお金で、善龍寺の妻子と一族21人の慰霊碑の傍らに、自分と妻千重子を併記した墓石を建てた。

生き抜いた名目は西郷家を絶やさないためだったが、それだけではない気がする。安易に死に逃げずに苦痛に耐えることが、死んで行った妻子含む戦死者たちへの鎮魂との思いがあったのかもしれない。

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話しは変わるが、西郷頼母の晩年の写真に、大正13年に37歳で結核死した水戸出身の画家・中村彝(なかむらつね)の晩年の写真を連想した。結核が悪化した頃で、彼の瞳に西郷頼母と同じような哀しみと澄みきった静寂を感じ、強く印象に残っている。

中村彝は若い頃、新宿中村屋経営者の相馬愛蔵・黒光夫妻の支援を受けた。代表作に「エロシェンコ氏の像」と、彼が結婚を熱望していた相馬夫妻の娘・俊子をモデルにした「少女」連作がある。

その時、俊子は16歳で、裸婦になって27歳の中村彝のモデルになった。そのスキャンダルが原因で二人は相馬夫妻から猛反対を受け結婚できなかったと言われている。

当時の「中村」つながりの洋画家では、中村彝より少し後の福岡出身の中村研一・琢二兄弟がいる。兄弟は洋画家として画壇の頂点に立ち、大成功し長生きした。しかし、兄弟の作品となると、中村彝に比べドラマ性は薄く印象に残っていない。

ちなみに、中村研一・琢二兄弟は私の母方の遠縁だ。母のすぐ上の実兄は絵が好きで、久留米での中学時代に坂本繁二郎のアトリエに出入りしていた。その後、既に成功していた中村研一を頼って上京したが、弟子入りは果たせなかった。

その彼は早稲田に入学してすぐに結核を発病し、先行きを悲観して帰省途中に瀬戸内海で入水自殺した。母の実弟もビルマのインパールで戦死しているが、母の長兄次兄二人は長命だった。そして、母は更に長く、97歳まで幸せに生きた。

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久しぶりに青空を見た。気温は25度ほどで、開け放った窓からの風が冷たく感じた。
しかし、青空の雲に夏の片鱗を感じた。

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夕暮れには雲取山が見えた。

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写真は上野駅近くのアメ横裏通り。

昨日はアメ横へ食材を買いに出かけた。
素炒りのアーモンド2キロ2600円。ピュアオリーブ油1リットル700円。粉寒天200g1200円。モチ麦500g500円。麹800g1200円。赤羽のスーパーで買ったら2倍程の値段になる。

粉寒天は抹茶やコーヒーを溶かして固め、賽の目に切って蜂蜜・練乳・ゆで小豆などをかけて食べる。これから、暑くなると更に美味しい。

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