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2013年7月 1日 (月)

富士の山開きが母の三回忌。静かな住まいがにぎやかになった。13年7月1日

7月1日は母の命日。死別から3年過ぎて、グリーフケアにあった統計通りに、死別の哀しみは薄れ、母のことを懐かしく想い出すようになった。

死別して1年目は猛吹雪に翻弄されるような哀しさだった。
2年目は凍てつく寒気に晒されるような寂しさだった。
3年目は冬の荒れ地を一人で歩いて行く虚しさだった。
その虚しさは今も変わらないが、時折、美しい青空や爽やかな風にふと立ち止まり、幸せを静かに噛み締めることが増えた。

先日の報道番組に、妻子を交通事故で亡くし、今は中学生の息子を男手で育てている父親が出ていた。事故から5年が過ぎているが、死別の哀しみは少しも小さくならないと彼は話していた。それと比べると、老いた母を看取った私の死別は、とても自然で受け入れやすい。

今、母の魂は現世から少し遠のいて、先に逝った祖母や父や兄姉の世界に一歩近づいたようだ。そのせいか、老いてからの母と30年60年前の若い母を一体になって想い出す。

長い年月も、振り返ると一瞬で過ぎてしまった。私に残された年月は、砂時計のガラスのくびれの上にほんの少し残った砂のようなものだ。若い頃は、盛大に時間を浪費したが、もうそれはできない。ガラスのくびれを落下して行く砂の一粒一粒を大切に、噛み締めるように仕事をし、遊び、人生を楽しんでいる。

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写真は、今日、母の心音が消えた6時半に玄関前に出て夕日を撮ったものだ。看取った時はとても暗かった、と思っていたが実際は違う。南東に面した母の部屋は薄暗くなっていたが、暗いと言うほどではなかった。電灯を点けたのは、死亡確認に来た医師たちを見送ったころの1時間後だった。だから、とても暗かった錯覚したのかもしれない。

昨日は、十条の冨士請の祭りへ出かけた。
赤羽駅へ向かっていると、途中の画廊前で作品展をしている作家とオーナーと目が合った。
「どちらへ、お出かけですか」
オーナーに笑顔で声をかけられた。
「富士登山です」と答えて、しまったと思った。
嘘ではないが、登るのは本物ではなく、高さ20mほどの塚を富士の溶岩で覆ったミニ富士だ。
「そんな軽装で大丈夫ですか」と聞かれた。
「現地で着替えますので」と、咄嗟にごまかしたが・・・
そう言えば、29日に線香上げに来た浜田氏と同じような会話を交わした。二人とも信じやすくて、ちょっと気の毒に思っている。

S_1S_0S_3S_4S_5十条の富士塚は173年前の天保11年建設。

富士登山が出来ない人たちのために江戸市中の各地に作られたものの一つだ。

本物の富士は11回ほど登山している。

その頃は、新宿発夜行で富士宮直通の急行があり、深夜に富士宮でバスに乗り換えて5合目まで行き、そのまま休まず登山した。

今はそれを弾丸登山と言って、危険だからしないように指導している。

しかし、当時の富士登山者の殆どは弾丸登山をしていた。

当時の私は若く元気で、2時間半程で駆け上り、早く着きすぎて、寒い中、ご来光を待つのが大変だった。

帰りは須走口を駆け下りた。
この下山ルートはとても楽しかったが、一度だけ砂に埋まっていた岩につまづいたことがある。

駆け下りていると突然、斜面が視野を走り、青空が見えて尻餅をついた。

空中を1回転した訳だが、砂地は柔らかく、怪我一つしなかった。

帰りのバスと電車の中では、猛烈に眠く、窓に頭をぶつけながら爆睡していた。

国鉄の車中販売で笹子もちを売りに来ると、必ず買って食べた。

登山で腹が減っていたので、本当に美味しかった。

上京してから50年、富士の山開きには本物と富士塚を欠かさず登ってお参りしている。

写真1。
昭和2年に建設された京浜東北線東十条駅。鉄道を跨ぐ橋の上にあり、空襲にも耐え、昔と同じクラシックな姿を保っている。

写真2。
東十条駅近くのお堂。隣の藤棚の下に縁台があり、暑い季節は近所の人たちが涼んでいて、将棋などしている。それは、50年昔と変わらない光景だ。

写真3。
富士塚を上る参詣者の列。頂上には石造りの祠がある。

写真4。
富士塚の頂上から下を見る。参詣者は多く、氏子の関係者が行列を整理していた。

写真5。
いつもは静かな住宅地の500m程の道の両側に隙間なく夜店が並ぶ。日曜と好天が重なったので、昼間から大変な人出だった。女の子の浴衣姿が可愛い。来ているのは地元の人ばかりで、何となくのどかだ。夜になるともっと混雑する。

母の仏壇の線香上げに、友人たち8人が今日までに来訪した。いつもは静かすぎる住まいだが、このところ深夜までにぎやかだ。仏壇の前も、届いた盛り花や供物が並び、百合の芳香が心地よい。

死後3年経っても弔問客が多い母は、つくづく幸せだと思う。私が死んでもこうはいかない。私に人望がないとは思っていないが、私を祭る仏壇はないだろうし、それを希望してもいない。死んだら、風のように跡形もなくなるのを私は理想にしている。

母の弔問客が多いのは、私が居るからかもしれない。私は独り者なので、伴侶などに気遣う必要がなく、来客はみんな長居して、母の思い出を交えながら馬鹿話を交わす。それはそれで、とても楽しい。

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