ドキュメント72時間・お墓参り。そして、心を癒す映画の中の神々。13年9月21日
昨夜のNHK・72時間は8月の記録的猛暑の谷中霊園。都心の霊園に墓参に訪れた人々の声は、どれも死者への愛情に溢れていた。--副題「真夏のお墓参り・異人たちとの対話」。
若い頃、神社仏閣や墓地を頻繁に訪れる老人たちが、形のないものに囚われているようで理解できなかった。しかし今は、その心情がとてもよくわかる。誰でも死別の意味は納得できる。しかし、心に大きく空いた穴は容易に埋められない。今回のドキュメント72時間に登場していたのは、そのような人たちだった。
同棲していた最愛の恋人を1年前に末期がんでなくした青年。恋人の墓の前で、彼は切々と彼女の思い出を語っていた。事業家として活躍していた父親の墓を訪れた熟年の姉妹は、涙ぐみながら父の思い出を語っていた。妻の墓に話しかけ、優しくできなかったことを詫びる老人は、老いの寂しさを滲ませていた。荒れ果てた親の墓を訪れた独り身の息子は、無縁になる他ない墓の行く末を語り、忙しさにかまけて墓参しなかったことを墓に詫びていた。
「かあさんのはか」と仮名文字の墓碑銘は、残された幼い子供たちが読めるようにとの親心だろう。その心情が心を打った。墓地は生と死が交流する不思議な空間だ。かっての若い私のように、肝試しに訪れた若者たちも、やがて、死者たちへの敬意と思いを語るようになるのだろう。
墓地はにぎやかで、不思議に安らぐ場所だ。私が母の遺骨の一部を微粉末にして撒いた野原では、母は跡形もなく土に帰り、リン酸肥料として植物に吸収され、美しい花を咲かせていた。四季折々にその野原を訪れると安らぎ、人は自然の一部であると感じさせられる。
オシロイバナとキバナコスモス。
夜昼が逆転し始めたので、正常に戻そうとしている。おかげで睡眠不足が続き気怠い。昨日は日中の暑さが戻って辛かった。春先の寒の戻りは平気だが、秋に夏の暑さが戻るのは辛い。しかし、日が落ちると涼しすぎる風が窓から吹き込んで来た。
邪魔だっだ扇風機の羽とカバーを外して洗った。洗っていると、一年の終わりを感じた。来年もう一度、この扇風機を使うことがあるだろうか。先のことなどどうでもよいのだが、ついつい考え込んでしまう。毎朝欠かさず、神棚と仏壇を清め、灯明を上げている。それは元々は母の仕事で、死の前年まで私に介助されながら続けていた。
仏壇へは、iPodに入力してある読経を上げている。父の宗派は日蓮宗で、お経はiTuneにあった池上本門寺の朝の読経をダウロードした。内蔵スピカーの音量は小さいが、iPodを仏壇に直に置くと振動が増幅され、ほど良い音量になる。父母も祖母も、兄姉も新しいもの好きだったので、iPodのお経は喜んでいるだろう。お経の間、手を合わせて死んだ肉親や知人たちの名を称え冥福を祈っている。今年になって死者は20人を越えた。多過ぎて、時折、誰かが抜け落ちる。これからは更に死者たちは増加して行くので、死者の名を称えるのはいずれ止めることにする。父方の菩提寺は福岡市警固の香正寺だ。先祖代々の墓は取り払われ、今は納骨堂に変わっている。博多は遠すぎるので、お金ができたら祖先の遺骨は永代供養にして、分骨した父と父方の祖母の遺骨を東京の樹下墓地に埋葬しようと思っている。
夕富士。
大気が乾いて、朝夕、富士がすっきり見えるようになった。
富士を見ると手を合わせてしまう。これは日本人のDNAがそうさせるのかもしれない。
ソヴィエト時代の映画監督アンドレイ・タルコフスキー作品は画面が美しく、絵描きとして大きな影響を受けた。最初に見たのは1962年制作の「僕の村は戦場だった」だ。ドイツ軍に両親と妹を殺された12歳の少年イワンの物語で、悲惨な戦場の中、彼が繰り返し回想する平和で美しい故郷の村が切なく記憶に残っている。
40年前の「惑星ソラリス」はSFの傑作で一番好きな作品だ。
巨大な知的生命体の惑星ソラリスを観測している人工衛星プロメテウス。主人公の心理学者はそこで起きる不思議な現象解明の為に派遣された。プロメテウスでは乗員の記憶の中の人たちが次々に現れ、乗員たちは混乱した。心理学者の前にも自殺した美しい妻が現れ、彼女の言葉に彼は動揺した。それらの不思議な現象を引き起こしていたのは、人工衛星から観測していた巨大な知的生命体のソラリスだった。ソラリスは大きな母性であり、人を癒し救う現代の神でもあったようだ。
「惑星ソラリス」は2002年に米国でリメイクされている。タルコフスキー版の妻役はしっとりと心に残る美しい人だったが、米国版の妻役は骨張った女優で、私の好みではなかった。
「惑星ソラリス」の少し前に作られた「アンドレイ・ルブリョフ」も良かった。アンドレイ・ルブリョフはロシア最高のイコン画家と呼ばれながら、その生涯についてほとんど記録が残っていない。
映画は300年にわたって異民族タタールに侵攻され続けてきた15世紀初頭のロシア。
プロローグのボロ布を張り合わせたような熱気球。修道院での生活と時折襲撃して来るタタールへの恐怖。彼らに捕まったアンドレイを、羽織っていた毛皮を脱ぎ捨て、全裸になって救う不思議な女。無知な為政者たち。経験がないのに、巨大な教会の鐘の鋳造を指揮して作り上げる少年。強姦されかけた女を救う為に止もう得ず殺人を犯したアンドレイ。彼はそれを悔いて、絵筆を折って沈黙の行に入る。
それらの不思議な八つの章で構成された長いモノクロ画面が、最後のエピローグで突然カラーに変わり、ロシアの草創期のイコンが映し出された。私はこの映画でイコンの素晴らしさを始めて知った。ソヴィエト時代の映画は好きだ。厳しい表現と言論の弾圧の中、必死に作った作品群には力があった。対して、ロシアに変わってからの映画は特筆する作品がない。
近況・・・絵本「おじいちゃんのバス停」を完成させて、Amazon Kindleの電子図書 にてアップした。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0B79LKXVF
Kindle Unlimited 会員は0円で購読できる。
上記ページへのリンクは常時左サイドに表示。画像をクリックすればKindleへ飛ぶ。
絵本の内容・・おじいちゃんのバス停・篠崎正喜・絵と文。老人と孫のファンタジックな交流を描いた絵本。おじいちゃんは死別した妻と暮らした家に帰ろうとバス停へ出かけた。しかし、家は取り壊され、バス路線も廃止されていた。この物語は、20年前に聞いた知人の父親の実話を基にしている。対象は全年代、子供から老人まで特定しない。物語を発想した時、50代の私には77歳の父親の心情を描けなかった。今、彼と同じ77歳。ようやく老いを描写できるようになった。
概要・・初めての夏休みを迎えた小学一年生と、軽度の認知症が始まったおじいちゃんとの間に起きた不思議な出来事。どんなに大切なものでも、いつかは終りをむかえる。終わりは新たな始まりでもある。おじいちゃんと山の動物たちとの、ほのぼのとした交流によって「終わること」「死ぬこと」の意味を少年は学んだ。
描き始めた20年前に母の介護を始めた・・このブログを書く8年前だ。
絵は彩色していたが、介護の合間に描くには画材の支度と後片付けに時間を取られた。それで途中から、鉛筆画に変えた。鉛筆画なら、介護の合間に気楽に描けた。さらに、水墨画に通じる味わいもあり、意外にもカラーページより読者に評価されている。それはモノクローム表示端末で正確に表現される利点がある。
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