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2013年9月30日 (月)

母の手編みの絨毯は我が家の歴史。中国バブル崩壊の足音。13年9月30日

母は子供の頃から、根っからの手芸好きだった。
母に手芸を教えたのは養父だった。養父は趣味と男気に生きた人で、頼まれると無償で芝居の大道具の書き割りを描いたり、小道具を作ったりしていた。

母は芝居小屋の作業場を覗きに行くのが好きだった。母が行くと「千代しゃん、よく来たね」と色付き和紙を箸に撒いて縮緬紙を作り、それで姉様人形を作ってくれた。小道具の鯛作りは殊に楽しかったようだ。新聞紙を丸め、膠と焼きごてで鯛の形を作り、銀紙を被せて色付けすると、本当に生きているような鯛が出来上がった。そんな養父の趣味のおかげで、母は久留米市内の芝居小屋や映画館は総て顔パスで入れていた。

編み物や裁縫も養父が教えてくれものだ。
養父の妻である養母、私が祖母と呼んでいる人は、生涯、料理も裁縫もしたことがない人だった。

母に料理を教えたのは、祖母の実父甚兵衛だった。甚兵衛は西郷軍に従って城山に籠ったほど血の気の多い人だったが、家事がまったくダメな祖母に代わって幼い母を育て溺愛していた。私が男女差への拘りなく、家事ができるのは、そのような歴史があったからだ。

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写真は日本ヴォーグ社の編み物の本の目次見開きに使われた母が編んだ絨毯。母は手芸で大賞を含め幾つも賞を取っていたので、手芸関係の雑誌などに作品がよく掲載された。

絨毯は家族が着潰したセーターを編み変える時、どうしても使えないクズ毛糸を集めて編んだものだ。絨毯は長い家族の歴史で、母は自分の時間ができるとこの絨毯に座って、幸せそうに手芸をしていた。

私はその上に寝転んで、珍しい毛糸を見つけては母に聞いていた。それは繁兄のセーターだったとか、裕子姉が赤ちゃんの時に着ていたポンチョだったとか、母は話してくれた。今は、長い年月の間に落ち着いた色に変化したが、子供の頃は花畑のように鮮やかで、寝転がると温かく心地よかった。そのような絨毯が5枚ほどあったが、姉の所などへ散逸した。上記の繁兄と裕子姉は母よりも先に逝ってしまった。

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これは80代から95歳まで熱中していた毛糸のパッチワークのショールだ。母は適当にパーツを編んでは適当につないでいた。そのままでは凹凸だらけなので、私がスチームアイロンを使い伸ばしたり縮めたりして平に仕上げていた。パッチワークの帽子は、半球型のアイロン台を作って被せて形を整えた。

久しぶりに押し入れから取り出してみると、一つ一つのパーツの思い出がよみがえって本当に懐かしい。母もよく、手芸の手を休めて、パーツの花を撫で、私たちが小さい頃のことを思い出していた。

終戦直後の昭和20年代、父の興した会社が倒産して借金で苦しかったことがあった。母はその頃、発売されてすぐの家庭用機械編み機を取り寄せた。母は手編みが得意だったが、当時は手編みより機械編みが上等とされた時代で、仕事はすぐに集まり、生活はとても助けられた。

最初の機械は定規のようなものを左右に差し込んで操作していた。それはすぐに改良されて、グリップの着いた器具を左右にスライドさせる方式に代わったが、今と比べると大変操作は面倒だったようだ。前の住まいの頃には最新式の編み機に代わっていたが、大きな音には閉口させられた。


S_3S_4今の住まいに引っ越してからは機械編みは止め、手編みだけになった。クマやネコやミツバチや野菜や、ありとあらゆるものの縫いぐるみを、母は猛スピードで魔法のように編んでいた。

編み物を止めたのは死の前年、96歳の頃だった。ある日突然「もう、編み物はしない」と宣言して、段ボール数個分の毛糸を手芸好きの九州の友達に送ってしまった。そして、繁兄や姉たちの遺品など、もので溢れていた身辺を私に片付けさせた。今思うと、死が間近だと覚悟したのはその時だったようだ。

晩年の母を見ていると、最後に、はっきりと自分の死期を感じたようだ。私を含め老人が言う「死ぬのが近い」とは違い、覚悟してからの死に関する言葉は雰囲気が全く違っていた。

私の住まいも、長年買い集めた仕事の道具や材料で溢れている。母は、すぐ傍に片付けてくれる私がいたが、私は元気なうちに自分で片付ける他ない。それで、毎日少しずつ捨てている。高価な道具類はネットオークションに出すつもりだ。

絵を描くだけの最小限の道具だけになったら、晩年をすっきりと生きられそうな気がする。


S_1S_2豆苗。

90円で買って切り取って食べ、残りの根の部分はパックに入れて水を差した。

それから1週間、窓際に置いていたら、写真のように茂った。

明日にでも、サラダにして食べるつもりだ。

ミズヒキの花と実。

目にするのは種の方で、花は小さくて分かりにくい。

種は表が赤で、裏は白。

小さな花は上半分が赤で、下半分が白。

紅白に分かれるのでミズヒキの名がついた。

先日、中国のバブル崩壊を特集していた。
いざとなれば、政府が強力に介入するので、日本のバブル崩壊ほどのことは起きないと思っているが、国家規模が大きいので、ちょっとこけても、世界への影響は大きい。

ことに、地方政府が競争で行って来た巨大建設はかなりのマイナス要素だ。上下水道やエネルギー網整備などなら、後々まで役立つが、建設の主力は巨大商業施設やマンション群などの箱もので、大きな負の遺産になりそうだ。

今、中国不動産市場で「地王」という新語が使われている。不動産王みたいな意味合いだが、日本の感覚とは微妙に違う。地方政府の負債総額が20兆元に達し、その解消のため、地方政府と不動産業者たちが組んで「地王」になって土地の値上がりを目指しているものだ。

例えば、北京の農業展覧館の敷地にある2・82ヘクタールの土地が21億元・約336億円で取得された。1平方メートルあたり7,3万元・約117万円と史上最高額だ。上海、杭州、蘇州などの大都市でも「地王」が次々と現れている。しかし、一般投資家はそれに踊らされそうにない。

9月には、中国の商業銀行の住宅ローン業務停止の動きが急速に拡大している。「地王」の動きとは反対に、商業銀行は高リスクの不動産関係融資から手を引こうとしている。結局は、「地王」たちの動きは不動産バブル崩壊の引き金にしかならないようだ。

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