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2013年10月15日 (火)

断捨離を続けて、残されたものを捨てる決断に悩んでいる。13年10月15日

台風の風の音で目覚めた。外へ出て横殴りの風雨に打たれながら地上を見ると、増水した新河岸川の上を、カラスが巧みに強風を横切って行った。木々は激しく揺れているが、いつもとかわらず車は走り、通勤の人たちも普通に歩いている。新幹線もいつものように走っている。伊豆大島では記録的な大雨で大災害が起きているのに、自然とは無関係に機能している大都会の姿に、少々違和感を感じた。

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台風一過の秩父山塊。
強風に撮っている体が揺れた。

普段の一人暮らしは本当に静かだ。時には静寂に息苦しささえ感じる。そんな時、上の階で足音など物音がするとほっとする。世間では騒音として近隣トラブルの元になるのだが、私は人の気配に安堵している。

ものを片付け捨て続けて来たが、部屋の外観は以前と変わらない。最後に捨てる予定の梱包材とタンスや引き出しはそのまま置いてあるが、それらの中身はすっきりして来た。今、残っているものは思い入れが深く断捨離はこれからが大変だ。それらを捨てるには決断が必要になる。

昨日は25年分の個展芳名帳を捨てることに迷った。中を見なかったら躊躇なく捨ててしまっただろうが、読んで行く内に捨てられなくなった。殊に、亡くなった知人や肉親の署名を見つけると益々粗末にできない。しかし、それらはいつかゴミにされる日が来る訳で、せめて自分の手処分するのが愛情だと思っている。その身を切るような辛さを克服して捨てることに、断捨離の本当の意味があるのかもしれない。

芳名帳を見ていると時代の変化を感じた。初期の芳名帳には20社以上の出版社から編集者が来ていたのに、去年の個展では1社もなかった。そんなことに出版不況を実感した。

結局、芳名帳は捨てなかった。
今の住まいを出なければならなくなった時、他の思い入れの深い品々と一緒に何も考えず捨てることになるのだろう。

母の遺品は、母の命が終わると感じた日から捨て始めた。死んだ日も、深い哀しみに抗うように大量に捨てた。それでも、どうしても捨てられなかった母の眼鏡と手帳は古い桐の箱にしまってある。それらは、自分の終わりを感じた時、体力が残されているうちに処分し、母の編み物と私の作品は血縁の者たちに託そうと思っている。

来年早々に私は姉が死んだ時と同じ歳になる。
姉は死を覚悟した時、住まいのカーテンから布団タンスまで備品総てを捨てて入院した。唯一、部屋の中央に残されていた手提げ袋には、アルバムと子供たちが幼い頃に買ってくれた、玩具の指輪などが入っていた。姉はそれだけは捨てられなかったようだ。意志が強くはなかった姉だが、人生を始末する覚悟はあったようだ。


NHK連続ドラマ「ごちそうさん」が「あまちゃん」に引き続き好調なようだ。「あまちゃん」ほどではないが、ときおりチャンネルは合わせて見ている。先日は納豆嫌いの悠太郎に、め以子が何とか食べさせようと苦慮している話しだった。

関西人は納豆嫌いが多いが、食わず嫌いだと思っている。関西人の食通魯山人はその美味さを評価し、500回ほど練るとグルタミンが増えて旨味が増すなど、様々な食べ方を発案していた。

私が育った南九州では、隣町の油津で藁づと納豆を売っていた。早世した繁兄は重い血管の病を抱えていたので、チーズや納豆を特別に食べていた。私は食欲のない兄に代わって、時折おこぼれを食べていたが、こんなに美味しいものはないと思っていた。だから今も、ご飯なしで納豆だけをどんぶりで食べる程に好きだ。

食べ方は様々に工夫している。基本は醤油に芥子と刻みネギと鰹節と海苔だ。問題はネギで、白い根深ネギより細い青ネギが好きだ。東北の知人はタマネギのみじん切りに砂糖を少量加えていた。納豆に砂糖と聞いて驚いたが、試しに食べてみると意外に美味かった。

最近はまっているのはおぼろ昆布納豆だ。納豆の味付けはシンプルに出し醤油と芥子だけにして、おぼろ昆布をまぶして食べる。これがとても美味くて飽きがこない。しかも栄養的に優れている。

納豆の姿は時代とともに変わってしまった。今の納豆容器は発泡スチロールばかりで味気ない。昔の藁づと納豆は独特の藁の香りがして、味も芳醇だった。

私が上京した頃は、藁づとからへぎで三角に包んだものに代わっていた。へぎとは檜を薄く削いだものだ。昔は駅弁も、厚めのへぎで作った箱を使っていた。食べるときはへぎの蓋に付いたご飯粒を食べてからで、へぎの香りが移ったご飯を食べていると旅情を感じた。

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台風余波前の夕空。

日曜の夕暮れ、NHKで路線バスの旅を見た。今回は奄美大島を平岳大が旅した。この番組は淡々と地方を旅して行くのがとても良い。今回は殊に海が良かった。沖縄ほど熱帯ではなく、九州ほど温帯でもない。私の育った日南の海に近い感じがして懐かしかった。ことに、シンプルに砂浜に寄せる波の音をそのまま流していた場面では子供の頃を思い出した。あの頃の夏休みは朝7時から浜へ行って海水浴をしていた。あの時の海水の味や波の泡の感触、それらが次々とよみがえって胸が熱くなった。

奄美に自然な砂浜が残っているのは、島なので大きな川がなく、川砂に頼っていないからだろう。本土の砂浜はどこも、砂防ダムにより川砂流入が止まって痩せてしまった。テトラポットが海岸線に並ぶ風景は味気なくて寂しい。

私の郷里の砂浜はまだテトラポットは設置していないが、子供の頃、とても広かった砂浜が今は半分ほどに狭くなって海がすぐ近くになった。

川砂減少対策として、鉄材を格子に組んだ砂防ダムが考えられている。これが普及すれば川砂はせき止められず、砂浜が元の姿を取り戻すかもしれない。


先日、海外生活が長い知人に会った。彼は欧米人を多く使う企業家でもある。地下鉄で移動中、彼は欧米の公共交通の不潔な悪臭に驚いたことを話した。比べると日本の地下鉄は無臭に近くとても清潔だ。日本の駅トイレも清潔だ。手洗いなどは自動化されていて、壊れずに機能しているが、欧米では考えられないことのようだ。

欧米の町並みは整然としているが、裏道へ行くとゴミだらけのことが多い。その点、日本は明治初期に訪れた欧米人は清潔さに驚いて、多くの紀行文に記録している。

私の子供時代は、子供たちの朝の仕事は家の前を掃き清めることだった。日本全体がその精神で、汚物やゴミを窓から道路へ捨てる文化の国から来た人たちには驚きだった。その不潔さがしばしば伝染病の大流行を招いて、その解決の為に下水道網が発達した。しかし、元々清潔だった日本は、かえって下水道網が遅れる原因になったようだ。

S_1ホトトギスが咲き始めた。

アンパンマンのやなせたかし氏が亡くなった。アンパンマン・アニメ版が放映される前、60代後半の彼に会ったことがある。その時、アンパンマンの絵本が幼稚園で大ヒットして驚いている、と言った話しをされていた。それからすぐにテレビ版が大ヒットして、彼は巨匠になってしまった。

テレビニュースで去年の彼の挨拶の言葉を放映していた。
「見かけは元気ですが、家に戻ると倒れて死んだように寝ています」と死が近いことを話していた。観客は「またまたご冗談を」と言った雰囲気だったが、私は本心だと思った。晩年の彼は、糖尿病に10回以上手術を繰り返している膀胱ガン、腸閉塞と満身創痍で、生きたくても生きているのは辛かっただろう。

終末期の母も、人前ではとても元気だったが、家へ戻ると死んだように寝ていた。生きていることは素晴らしいが、とことん生きると、生きることが辛くなる。だから、さして恐怖は感じずに死を受け入れられるのかもしれない。


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