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2013年10月24日 (木)

時折雨で肌寒かったが、30年間変わらないディズニーランドの風景と、詩人加島祥造。13年10月24日

涼しくなってから、猛烈なくしゃみと鼻水に悩まされていた。仕事に影響するので、先日、東京北社会病院耳鼻科へ行った。フィバースコープで副鼻腔まで調べたが異常はない。花粉症との診断で、抗アレルギー剤と点鼻薬が処方された。他の科も幾つかかかったので、医療費は薬代共で2万近い。予定外の出費は痛いが、一人暮らしでは健康は最重要で疎かにできない。

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住まい下の新河岸川河畔に群生するセイタカアワダチソウ。

花粉症と言われてから、散歩道を注意して眺めている。例年より格段に多く、至る所にセイタカアワダチソウが黄色い花を咲かせていた。原因は間違いなくこれだ。抗アレルギー剤はとてもよく効いていて、今はとても楽になった。

昨日は所用で出かけたついでに、新橋の姉が働いている小料理店に寄った。しばらく会っていなかったので話すことは多かった。互いの話題が、知人の死や葬儀のことになるのは歳のせいだろう。

何もいらないと言ったが、姉は何か食べたらとビーフシチューを出した。これは母直伝のもので、子供の頃から何かあると母はコトコトと長時間煮込んで作ってくれた。

母は子供の頃、近所にあった久留米18師団の将校クラブの厨房に自由に出入りして遊んでいた。その頃、料理人から教わったシチューを、長年の間に母が自分流に作り変えたものだ。

18師団は国軍最強と言われていた。属していた伯父はインパールで戦死した。母の実父は18師団ではなく近衛師団に選抜され、地元に帰省すると元近衛兵として女性に大変にもてた。その結果、親が許さない母の実母と結婚して勘当されてしまった。祖父の実家を継いだのは真面目な弟で、その末裔たちは社会的に活躍している。

新橋の帰り、無性に東京湾が見たくなって東京駅で京葉線に乗り換えた。葛西臨海公園前の広大な荒川放水路河口にかかる鉄橋からの東京湾風景は素晴らしい。遠く右手に恐竜が向き合うような東京ゲートブリッジ。その傍らの風力発電の巨大な風車。葛西臨海公園の巨大観覧車。その辺りの無国籍な広大な光景は東京で一番好きな場所だ。

舞浜で下車してディズニーリゾートラインのモノレールに乗った。左にディズニーランド、右に東京湾の眺望が開ける夕暮れの沿線風景も素晴らしい。引き返した頃は5時過ぎですっかり暗くなっていた。

そのまま帰る予定だったが、ディズニーランドのゲートを見ると入園せずにはいられなくなった。3300円のアフター6パスポートを買って長蛇の列に並んだ。入園まで30分待ちだったが、隣が学校帰りの女子高生の2人組で退屈しなかった。時折、彼女たちと言葉を交わしているとあっという間に入園時間が来た。「寒いから、風邪引かないでね」と別れを言うと、二人は満面の笑顔で礼を言って、人波へ消えて行った。

平日で時折雨が落ちる肌寒い日だったのに、休日並みの大混雑だった。
列が短いウエスタンリバー鉄道に乗った。前の席は広島方言の70代後半と80代の姉妹と、案内している熟年の姪らしき人。老姉妹は始めての経験で、本当に嬉しそうに方言で会話しているのがとても楽しかった。私の右隣は小さな男の子を連れた若い母親。こちらも始めての来園で、素朴な感動が伝わって来た。

ふいに、好奇心一杯に楽しんでいる老姉妹の後ろ姿と母が重なった。8年間毎日、母の車椅子を押していていた記憶がよみがえり、不意打ちを食らったように感傷的になってしまった。

次は蒸気船マークトゥエイン号に乗った。いつものように舳先に立って暗い水面と両側の木立を眺めた。その時、何故にこれほどディズニーランドが好きなのか氷解した。

この二つのアトラクションは木立が深く大きく成長しただけで、30年前と全く変わらない。対して、住んでいる赤羽はその30年間で激変した。住まいも住宅公団の借家で終の住処ではなく、やがて立て替えられ跡形もなく消失する。しかし、ディズニーランドにはこれから先も同じ風景が維持されるはずだ。ここはアイデンティティーを求めて辿り着いた安らぎの場所で、だからこそ一人で行くのだと思った。

S_1S_3S_2エレクトリカルパレードまで30分あったので射的のシューティングギャラリーへ行った。

生活は相変わらずお先真っ暗で、厳しい状況はこれからも続く。

射的を選んだのは、的を全部当てて戦い抜く気力を期待していたのかもしれない。

敢えて肘固定なしの不安定な立ち射ちで、お遊び気分ではなく本気で狙って10発10中当てた。

景品の保安官バッチ。

昔はなかった景品で、今回は殊更輝いて見えた。

ここの銃は本物のように重く、女性と子供は一部を固定して射つと良い。

10発当たらなくても、ラッキーの的に当てると金バッチが貰える。

ただし、ラッキー的は変動しているようで、それがどれかは分からない。

ラッキー的に当てても、10発当ててしまったら私と同じシルバーの保安バッチになるらしいが、真偽は知らない。だから、金銀同時に貰う訳にはいかないようだ。


先日のNHK番組「72時間」は巨大ゲームセンターだった。

ゲームセンターでは若者から熟年まで男女差はなく真剣に遊んでいた。インタビューに答えた人たちも、私と同じようにクレーンゲームで景品を獲得することで、自信を持ちたかったと話していた。

人生は短いのに死へ至る年月は長く、時にはその長さに耐え難さを覚える。私が射的をしたように、ゲームセンターで遊ぶ老若男女たちはゲームに人生を重ねていた。


エレクトリカルパレードと花火を眺めてから、長蛇の列のアトラクションは止めて9時に帰路についた。睡眠不足が続いていたので東京駅まで爆睡した。赤羽の閉店時間寸前のイトーヨーカ堂で明日の食材を買って帰宅した。

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午後4時半、ゲート前は閑散としているが15分ほどであっと言う間に長蛇の列ができた。


19日土曜のETV特集は「ひとりだ・でも淋しくはない・詩人加島祥造90歳」も心に残った。
加島祥造は昭和29年に31歳で当時のエリートコースのフルブライト留学。その後、信州大学、横浜国立大学、青山学院女子短期大学などで英米文学教授に就いた。更にアガサクリスティー「ナイルに死す」の翻訳やノーベル賞作家の翻訳で若くして名をなし、女性にも大変にもてる人だった。しかし、60代で自由を求めて家族と大学教授の職を捨て横浜から伊奈谷に移住し、今に至る25年間一人暮らしを続けている。

自然の中で、老子的な思想を詩、書、画で表現する現代の文人と言われ、老いてからのヒット作も多い。
詩集「求めない」小学館 2007年「受け入れる」2012年が幸せに生きるための知恵が詰まった詩集として大ヒットした。老いても熱烈な女性フアンが彼の回りに集まって来る。

彼の生活は年金に著作料などが加わり一般の老人よりはるかに豊かだ。彼自身、うまい飯と自然と遊ぶ自由と好きな女性たちのために豊かさは重要だと語っていた。そのために仕事へすり寄ったことがある、と率直に話していた。

彼の伊奈谷での住まいは主を捜すのに苦労するほど広く10部屋はある。家事はまったくできないので、彼の孫ほどの魅力的な女性たちが、アシスタント兼お手伝いさんとしてやって来て、髭の手入れまでやってくれる。

彼はインタビューアーの「死は怖くないですか」の質問に不機嫌に怒っていた。しかし、根っからの女好きで、女性ファンの前では全く違う顔を見せていた。

番組中で、女性ファンの前で高飛車な言葉を放っていたのは、女性フアンがそれを好んでいると見抜いての姿勢だろう。その合間に見せた嬉しそうな顔こそが彼の本質だと思った。

と言ってもそれらは輪郭に過ぎず、本当の深い本質は誰にも分からない。
編集者から銀座のバー経営に転進した息子の店に行った時の彼が、本当の彼に近いのかもしれない。18歳の時に母と自分たちを捨てた父親へ歯に衣を着せぬ息子の言葉の前では実に従順だった。そして、後半の東大教授姜尚中との対談では、最初のインタビュアーへの傲慢さとは真逆の敬意さえ見せていたが、それも彼の一面だろう。

彼が慟哭するほどに悲しんだのは母との死別と最後に恋したドイツ人女性医師AMとの死別だった。AMは匿名ではない。日本人と結婚して来日して寡婦となった彼女を彼はアムと呼んでいた。アムと知り合ったのは80歳での個展の時で、2年前88歳の時に彼女は突然に白血病で死んだ。アムの遺骨は彼の住まいの庭に荒く砕いて蒔かれていた。死別以降、彼はかって彼女と歩いた散歩道を歩けなくなってしまった。

対談した姜尚中の心を病んだ息子は若くして自死している。死別の深い哀しみに出会った人とは、どんなに考えが違って肌合いが合わなくても、どこかが繋がってる。それは同病相憐れむと言ったものではない。誰にとっても死は重いものだ。それは死への素直な姿勢への共感で、その1点でこの番組は私の心に残ったのだと思っている。

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