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2014年1月24日 (金)

鶏の胸肉のレシピと「足尾から来た女」が想い出させた「映像の世紀」14年1月24日

今日は暖かく3月の気温だと言っていた。コートは不要で、セーターだけで自然公園へ出かけた。
途中、赤羽台団地を抜けると、商店街があった城塞のような主棟は取り壊されて消えていた。昔、商店街でよく買い物をした。昔日のにぎわいが想い浮かび、深い喪失感を覚えた。もし母が生きていたら、とても寂しがっただろう。

自然公園で春の兆しを探したが気配はなかった。以前は今のように徹底的な草刈りをしなかったので、厳冬期でも、枯れ草に守られたオオイヌノフグリの可愛い青い花を見つけることができた。

少し散策して時間をつぶし、3時半に予約してある赤羽西にある上野歯科医院へ行った。月に一度の歯石除去と、初期虫歯が見つかればすぐに治療してもらえる。この医院は丁寧なだけではなく、総てに清潔で、スリッバも消菌タイプが使われていてる。

治療台前の大きなテレビではフジテレビ制作「白い巨塔」を字幕放映していた。眺めながら、放映された2004年当時に手術した、90歳母の肝臓がんのことを想い出した。その頃、入院している母の見舞いから帰宅して、このドラマを身につまされながら見ていた。

S_9S_7S_8S_6緑道公園のロウバイはまだ莟だが、住宅地では開花していた。

半透明の花弁は実に清楚だ。

明日は南風が吹いて、4月の暖かさだと予報していた。

その後は再び北風が吹き、冬に逆戻りする。

行ったり来たりしながら、冬は確実に遠ざかって行くようだ。

疲労回復物質・イミダゾールペプチドを多く含む鶏の胸肉は今も食べ続けている。

始めは不味くて、すぐに飽きたが、今は工夫を重ね、とても美味しく食べている。

胸肉は400〜500g辺りの大きめを買い求め、皮近くまで賽の目に深く切れ込みを入れて、特製のタレに漬け込む。

タレは、塩麹、ショウガ、八丁味噌、胡椒、唐辛子、粉ニンニク、酒、をフードプロセッサーにかけて作る。

一晩漬け込んだだけで、塩麹の働きでパサパサしている胸肉はしっとりと滑らかな食感に変わる。

元々、鶏の部位で一番旨味成分が多い場所なので、実に美味しい。

調理は卵焼き用の四角いフライパンを使う。写真の蓋は手製で、1ミリの銅板を叩いてフライパンにピッタリと密着するように作った。

フライパンに少し多めの油を引き、皮を下にしてごく弱火で20分間、蒸し焼きにする。皮に少し焦げ色が着いたくらいが食べごろ。皮のゼラチン質がとけ込んだ肉汁は大変美味しいので、冷蔵庫で固めて煮こごりにして食べる。上に浮いている大量の油は捨てる。

この蒸し焼きの胸肉は大根おろしで食べると絶品の美味さだ。柔らかくてコクがあり、それが胸肉だと、誰も当てられないほどの美味さだ。


昨夕は明治神宮裏にあるレストランでのパーティーへ招待された。出席者の多くは各界の元企業戦士で年齢層は高い。平均すれば私より少し下辺りの感じだ。この手のパーティーは殆ど経験がない。強いて言えば同窓会に近い。

初対面の方たちと名刺交換をして、もっぱら赤ワインを飲んでいた。様々な方と話したが、調子に乗ると自己嫌悪に陥るので、できるかぎり無口に徹し自重した。2時間ほどでお開きになり、二次会に向かう人たちの誘いを断り真っすぐに帰宅した。

毎日大根おろしを食べているので、赤羽駅で下車してケフィアヨーグルト用の牛乳と大根を買った。帰宅して、大根おろし作りが億劫だったので、フードプロセッサーで作ってみた。見かけは普通の大根おろしができたが、食感が違いとても不味いのに驚いた。

私は子供の頃から、おろし金のトゲトゲが苦手で、大根おろし作りが嫌だった。しかし、これほど味が違うと分かれば、あのトゲトゲが納得できる。パーティーでは飲むばかりであまり食べなかったので、作り直した大根おろしで食べた鶏の胸肉はとても美味しかった。

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夕暮れの雲取山。
近未来の超高倍率の望遠鏡で眺めたら、山の動物たちが見えるはずだ。

NHK土曜ドラマ「足尾から来た女」のテーマ曲は1999年〜2000年 NHK「日本 映像の世紀」の加古隆のテーマ曲に似ていた。番組表を見ると千住明・曲とあったが、影響を受けているのかもしれない。

それで無性に「映像の世紀」が観たくなって、you tuve で探すと戦争編のダイジェスト版が沢山見つかった。ナチスの無血パリ入城は、あの時代にカラーフイルムで撮られていたことに驚く。太平洋戦争では神風特攻機が米軍空母に突撃するシーンに胸が痛くなった。

テーマ曲・加古隆の"バリは燃えているか"は今聴いても名曲だった。
「映像の世紀」はNHKが放送開始70周記念に、総力を挙げて世界中から20世紀の貴重な記録映像を集め制作し、1995年〜96年にかけてオンエアされた。この傑作ドキュメンタリーは19年を経た今も色あせない。この頃のNHK作品は「ブロジェクトX」「新日本紀行」など、民放の追従をゆるさない傑作ぞろいだった。

更に「ブロジェクトX」を探すと、マツダのロータリーエンジンの復活があった。番組に登場する日本人技術者たちの強い情熱や優秀さに感動する。キャッチアップやコピーばかりしている韓国・中国からは、彼らのような技術者たちは生まれにくいだろう。

更に検索しているとBS1で放映したカラー版 2002年 英国制作「第二次世界大戦」を見つけた。全編3時間の長尺だが、明け方まで見入ってしまった。戦争映像だが戦闘シーンは少なく、銃後の生活や背景を真面目に描いていた。機動性が必要な前線での撮影は白黒でないと無理で、感度が悪かったカラーフイルム撮影は難しかったのかもしれない。

その結果、却って戦争の意味がよく描かれていた。映像の中で、米国大統領のルーズベルトは繰り返し、国民に対し敵国指導者は総て殺すと演説していた。これを見ると、ニュルンベルク裁判も東京裁判も、戦犯処刑は始めからの既定路線だと分かる。

世界恐慌対策の、ルーズベルトのニューディール政策は失敗だった。しかし、ヨーロッパで戦争が始まると経済はV字回復し、ニューヨークの映像は活況を呈していた。戦後、米国が戦争を続けた理由の一つに、軍需産業による成功体験が大きく影響しているようだ。

第二次大戦は、差別されていた黒人と女性の職域が拡大する効果があった。信じられないことだが、開戦当初、黒人兵は前線で戦わせてもらえず、後方の汚れ仕事をさせられていた。彼らが白人と対等に戦地へ送られたのは、戦争後半のことだ。

日系人の強制収容所送りも米国に汚点を残した。日系人は差別を跳ね返そうと、自ら志願し、日系人だけで編成された第442連隊戦闘団はイタリア戦線で米軍史上最大の死傷者を出して戦い、それをきっかけに日系人は権利を勝ち取って行った。しかし、戦功があったのにも関わらず、華々しい都市入城や、強制収容所開放では、画面に登場させてもらえず、戦後しばらくは功績も意図的に隠されていた。

「足尾から来た女」は懐かしいドラマだった。あの時代を引きずる少し前の進歩的知識人たちは、革新が正義で保守は悪者と決めつけていた。

もし、明治大正の左翼運動家たちが、革命に成功したソヴィエトで何が起きていたか知ったら、革命に幻滅したはずだ。現実のソヴィエトも中国も、指導者は残忍な専制君主で、民衆は厳しい弾圧下にあった。

共産国への地上の楽園幻影は戦後も長く続き、それに抵抗するように西側諸国の社会改革が進んだ。おかげで、真の社会主義は中ソではなく日本で実現したのは皮肉な結果だ。現在のロシア・中国は西側諸国と比べ遥かに資本主義の悪弊に染まり、中国に至っては、世界最悪の資本主義国家の侵略国家に変身している。北朝鮮に至っては近代以前で、中世の専制国家に近い。

ドラマの始めに蒸気機関車が鉄橋を行く場面があった。あの蒸気音と汽笛を鳴らしてガタゴト行く蒸気機関車はとても懐かしい。トンネルに入った時の客車内に立ちこめる石炭の煙。小豆色の客車。木の枠に緑や青のビロードが貼られた座席。真鍮のストッパーがついた窓枠。子供たちは列車に乗ると、ストッパーのレバーをパチンコの手打ちレバーに見立ててよく遊んでいた。今のパチンコは総て電動なので手打ち用のレバーはない。

母に連れられ、日南市の大堂津から隣の油津へ映画を見に行く時、バスより汽車に乗るのが断然好きだった。僅か10分ほどの小旅行だったが、今も鮮明に想い出す。低い軒の漁師町の山際の線路を少し進むと岬を潜る短いトンネルに入った。トンネルを抜けるとすぐに小さな入り江で、美しい砂浜と小さな集落があった。集落の外れを流れる酒谷川の鉄橋を渡ると海へ迫った山裾を巻くように列車は進んだ。その辺りは太平洋が広く見渡せ、時折、イルカの大群が眼下に眺められた。

沖合には七ツバエの巨大な岩礁と大島が並ぶ風光明媚な景色なのだが、当時は当たり前過ぎる光景だった。今頃の冬の大気が冷えた早朝には、暖流の蒸気がもうもうと立ちこめ、まるで海が沸騰しているように見えた。そこを過ぎるとすぐに山間の油津駅についた。駅前は新開地で空き地ばかりで殺風景だったが、今は建物で埋め尽くされている。

油津は東洋一のクロマグロの水揚げ港で、牛ほどの巨大なマグロが揚げ場一面に並べられていた。今はマグロ漁は衰退し、先日友人が訪ねた時は、すっかり寂れていたと話していた。

私が最後に訪ねたのは30年以上昔だが、その頃も衰退していた。だから、友が失望した気持ちはよく理解できる。しかし、幼時に数多くの洋画を観て、今の自分を形成してくれた油津は、母の思い出とともに忘れ難い活気のある街だった。

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