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2014年1月27日 (月)

100分de幸福論」経済も科学も哲学も芸術も目指すのは幸せだった。14年1月27日

100分de名著の新春特集は「幸福論」だった。
古来、どうやったら幸せになれるか、多くの人が考え続けたが答えは出ていない。ただ、何となくこの辺りにあると分かっているだけだ。
番組では、文学・経済学・哲学・心理学の名著を読み解くことで「幸福論」を考察していた。

作家・島田雅彦氏は井原西鶴作のベストセーラー「好色一代男」「好色一代女」を取り上げた。好色一代男の世之介は7歳で性に目覚め、生涯で関係した女は3,742人、男は725人。現代の額で親の遺産400億を使い切って、還暦に女護ヶ島へ向けて船出した。

世之介の最後の言葉は
「親はなし。子はなし。定まる妻女もなし。これから、何になりともなるべし」

・・・自由に生きて来たのだから、これからどうなろうとかまわない・・・

「好色一代女」は好色庵に住む老女が若侍に話す回想として描かれた。
彼女は貴族の美しい娘として育ち、大名の愛人となったが、あまりにも魅力があり過ぎて、殿様が健康を損なったので大名家から追い出された。それからは女性のできる仕事はピンからキリまで総て経験した。女右筆--貴人に仕えて代筆をしたりする書記。遊女の太夫。お寺の坊さんの妻。年を経るに従って、身を落とし、最下層の売春婦・夜鷹まで、生涯で関係した男は一万近くになる。

老女の言葉は、
「我は一代女なれば何かを隠して益なしと、胸の蓮華ひらけてしぽむまでの身の事。たとえ流れを立てればとて心は濁りぬべきや」

・・・自分の生き方を包み隠さず話したけど、後悔はまったくない・・・

女遊びに400億の資産を使い切った世之介が幸せだったのか、出席者の考えは次のようなものだ。

経済学者の同志社大学院教授・浜矩子氏は・・・損益分岐点・費用に対し遊びによる楽しさが下回っているので幸せとは言えない・・・

東京医科大学教授・西研氏と法政大学教授・鈴木晶氏は・・・世之介と老女二人は、当時の誰もが憧れていた自由を手に入れた。しかし、自由は孤独を伴うので幸せとは言えない・・・

島田雅彦氏は・・・寂しいまでの自由を体験したことで、悟りへの道は近かったかもしれない・・・

二人は魂の解放を目指した結果、悲惨で寂しい道を歩いた。
しかし、身分制度にがんじがらめに縛られた時代の二人はアンチヒーロー的な格好よさがあり、ベストセラーになった。後述するが、皆から喝采を浴びることも幸せの条件の一つだ。

19世紀米国の小説家・ナサニエル・ホーソーンの言葉。

「幸福とは蝶のようなものだ。追い求めている時には、掴もうとしても逃がしてしまう。しかし、静かに座っている時には、おのずから近寄って来る」


経済の同志社大学院教授の浜矩子氏はアダム・スミスの「国富論」を取り上げた。
原題は「諸国民の富の性質と原因の研究」で「国富論」の国は国家ではなく国民を表す。国富論はお金を国家が溜め込むのが正しいとした当時の重商主義への批判として生まれた。アダムスミスは国の豊かさは労働に対する報酬による国民の幸せによってもたらされると考えた。

当時、斬新な経済論だった「国富論」から200年を経て様々な経済論が生まれたが、どれも国民の幸せを満たしていない。それどころか、グローバル経済により先進国の国内企業は空洞化し、ワーキングプアやブラック企業を生み、資本主義経済は疲弊し始めている。

近年の調査では世界の最富裕層85人の資産総額が下層の35億人分・世界人口の半分と同額に達している。更に、人口の1%の富裕層が世界の富の半分を独占している。米国では、リーマン・ショック危機後の2009〜12年の成長期に下層階級90%は経済的に苦しくなり、上位1%の富裕層は成長期に生まれた利益の95%を独占してしまった。

今後、累進課税などの有効な手を打たない限り、経済格差は開くばかりだ。
このままでは世界経済は富裕層によって崩壊させられる。
1%の階層が利益の95%を独占することに合理性は全くないと経済学者ビケティも言っている。

ピケティの考えは、r (株や不動産収入によって得られる利益=資本収益) は g (労働によって得られる利益=労働収益) を常に上回り、反対に g が r を上回ることはない。

金持ちは無能でも努力しなくても、いつまでも金持ちで居られる。しかし、下層労働者はいくら働いても下層から抜け出すことはできない。金持ちも貧乏も、親から子、子から孫へと延々と相続され続ける。その連鎖を断ち切るには金持ちに多く課税する累進課税でお金を貧乏人へ再分配するしかない。

もし、現状のまま何もしなかったら、資本主義経済は崩壊し富裕層も大打撃を受ける。
米国では、富裕層の街は有刺鉄線で囲まれ、マシンガンで武装した屈強な警備員によって守られている。彼らは、自由で安全な生活を奪われても、千年かけても使い切れない莫大な資産の方が、幸せをもたらしてくれると誤った妄想に囚われている。

ワイドショーなどで鋭い経済論を展開している浜矩子氏は年収や年金の数字で幸福論を展開すると思っていたが、意外にも、経済の目的は、数字にではなく人間的な営み、共感、人の痛みが分かることにあると話していた。そして、このまま富裕層が道義を忘れて富の独占を続けるなら人類は崩壊するとまで言い切っていた。

ショーペンハウアー「幸福について」より

「富は海水のようなもの。飲めば飲むほど、のどが渇く」


哲学の西研氏はヘーゲルの「精神現象学」を取り上げた。これは哲学書の中で難解なことで有名らしいが、西研氏はとても分かりやすく解説していた。

「精神現象学」は個人の意識・人類の歴史における成長発展を体系的に理論化したものだ。
まず若者は生死をかけるほどの自分を認めさせる承認要求への戦いをする。例えば喧嘩やスポーツで勝つことがそれだ。勝つことで単純に幸せ感を得られるが、そこに落ち着くことはない。勝者もいつか敗れるし、勝利を維持しようと努力を続ければ競争の奴隷へ陥って自由を失って行く。

そこで自分だけの価値を追求し始める。
それは絵描きの世界に当てはめると、とても分かりやすい。

始めは絵の巧い下手の競争に明け暮れるが、認められない者たちが取り残される。
取り残された画家たちは疲れ果て、自分の世界に閉じこもるようになる。

「自分の作品は誰にも理解できない。けなす奴がいたら勝手に言わせとけば良い」

彼らはそのように自分を納得させて、世間とのつながりを断ち作品を発表をしなくなる。

古代ギリシャでは、それをストア主義と呼んだ。
彼らは自分たちだけの価値の中で生きて行こうとした。
かって引きこもりの経験がある司会の伊集院光氏は、引きこもりと同じだと話していた。それは一見自由な生き方だが、やがて誰かに認めてもらわないと寂しくなる。
そのように人は、絶対に承認欲求から逃れられない。

ヘーゲル以前のルソーやカントは自由を礼賛していたが、彼は自由は危うく、自由は人を孤独に不幸にする、と考えた。自分を認めてもらおうとする欲求と自由を求める心は矛盾する。例えば、八方美人の好い子になると人に承認される楽しさがあるが自由を失う。

そこで、自由を失わずに人との繋がるために普遍性を求める意識・理性の重要性に着目した。理性があれば自分の自由を保ちつつ、他人の承認も得られる。それが完成した時、魂は真に解放され幸せを感じる。

魂の解放に辿り着くには、人は一人では存在できないことを認めなければならない。サディストはマゾヒストがいるから、王様は家臣や奴隷がいるから存在する。そのように人は他者によって存在させられている。

一人では幸せにはなれないから、気遣いや愛が生まれる。
インターネット上の偽装された人間関係は孤独な人たちに孤独ではないと錯覚させる。その結果、何となく一人でも生きられると思い込んでしまう。しかしそのように、リアルな繋がりを拒否し続ければ、人は確実に不幸へ落ちて行く。

「あなたがいて嬉しかった」
これは現代の若者たちが幸せを実感した時に抱く言葉だ。
誰かが自分のことを大事に思ってくれる時に、あるいは、誰かの存在を承認してあげた時に、誰もが愛と幸せを確信する。古今東西に関係なく、幸せはリアルな人間関係からしか生まれない。
ヘーゲルの難解な「精神現象学」の神髄は、意外にも世俗的な格言と重なっていた。


心理学の鈴木晶氏はフロイトの「精神分析入門」を取り上げた。 

フロイトは人を言葉で表現できる意識と無意識で構成されていると考えた。無意識側にある本能は意識的な行動に結びつかないために歪められ、その衝動と欲望が結びついた欲動によって人の行動も歪んで不幸を生んでしまう。
欲動は仏教での煩悩に近いものだ。

例えば性欲の殆どは子孫を残す為ではなく快楽の為に使われている。健康維持のためにある食欲は、その欲動に従えば確実に健康を損なってしまう矛盾がある。

更に、フロイトは人の心を社会的な圧力・超自我と自分である自我と無意識からの要求・エスと、三つに分けた。そこでの自我は超自我に締め上げられ、エスに突き上げられ、いつもか弱く揺れ動いている。だから、自我は常に何かに支えてもらわないとすぐに壊れてしまう。自我を安定させる為に、人は自分を知る努力をするが、概ね失敗したり挫折してしまう。そのように自我はひ弱で面倒くさいものだ。

フロイトはエスを抑圧された性欲として語ることが多く、世間はしばしば批判の対象にしたが、解説を聞いていると、堅苦しく批判するほどのことはないようだ。

心理学においても、か弱い自我は人とつながっていないと安らぎを得られない。誰かと繋がって認めてもらったり、認めてあげたりしている時に、人は愛や幸福を感じることができる。
それもまた、4者に共通した幸福の定義だった。

フロイトの言葉。
「言葉はもともと魔術でした。われわれは言葉の力によって、他人を喜ばせることもできれば、絶望の淵に追いやることもできます。ですから、精神療法の手段として言葉を使うことを軽んじてはいけないのです」

「情けは人のためならず」
「見返りを求めない無償の愛が幸せにつながる」
「愛されることや褒められることばかり求める人は愛も賞賛も得られない」

「幸福論」は昔から言い尽くされたそれらの古い格言に辿り着いてしまった。
幸せについて考えることそのものが幸せへの近道なのかもしれない。


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メキシコ産のカボチャを売っていた。
一緒に茹で小豆の缶詰を買って少量の水と隠し味程度に醤油を加えて柔らかくなるまで煮込み、仕上げに粉寒天を加えて冷蔵庫で冷やした。
このカボチャ羊羹がとても美味い。感動するほど美味い。

私の「幸福論」は美味いものを食べ、美しい風景を眺め、美しい女性たちと遊んで「良い人生だった」とつぶやきながら、良いことも悪いことも総て受け入れ、最期を迎えることだ。
しかし、死を迎え入れることはじつに難しく簡単ではない。


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