« 音楽・文学・絵画において、佐村河内守氏と新垣氏のゴースト関係は普通のことだ。これはソチオリンピックに新垣氏が仕掛けた渾身の逆転劇だった。14年2月8日 | トップページ | 高橋大輔のBGM聴きたさに寝不足。人民日報と韓国主要紙はスポーツも食べ物も世界遺産も国連活動も反日に満ちていた。14年2月14日 »

2014年2月11日 (火)

フジテレビ跡地に、バブル期の40代に訪れた二度目の青春を想い出した。14年2月11日

28センチの大雪の8日土曜夜、二度目の散歩に出た。外は氷点下の猛烈な地吹雪で、一瞬でビニール傘が破壊されてしまった。すぐにフードを被って防寒に努めたが、顔に雪が突き刺さるように当たって痛い。こんな経験は、昔の冬山登山以来だ。川沿いの道を2キロほど歩いて引っ返すと、行きがけにつけた自分の足跡が完全に消えていた。

帰り道、遠くに地吹雪にフラフラ歩いているお年寄りが見えた。危ない、と思っていると、彼は吹きだまりの側溝に足を取られて転び、四つん這いなってもがいている。急いで駆けつけて助け起こしたが、そのまま誰も通りかからなかったら、無事でなかったかもしれない。

翌日の選挙日は裏道の雪も溶けて歩きやすくなった。今回の雪は粉雪で、木の枝はまったく折れなかった。去年1月の大雪の時は湿った雪で、大量に付着した公園の木が沢山折れた。

オリンピック番組は面白くない。メタルが取れなければ大反省会になって気分が滅入るし、取れば取ったで、同じ映像を繰り返し見せられてうんざりする。

人気のフィギアスケートは若年齢化した上にアクロバティックで採点の仕方がよくわからない。それはモーグルも同じだ。

狭いリンクをクルクル回っているショートトラックは、お茶碗の中で豆を転がしているみたいで好きになれない。見ていると、近所の幼稚園の運動会を想い出してしまう。

見て楽しめるのはアイスダンスだ。この優雅さは順位に関係なくどれも素晴らしい。急斜面を半ば飛ぶように滑って行く大滑降の迫力も捨て難い。


M_4

玄関前に積もる粉雪。
この後、日が暮れると地吹雪がひどくなった。

NHK朝ドラ「ごちそうさん」にぬか漬けがよく出て来る。見る都度食べたくなるが、売っているぬか漬けはしょっぱくて不味い。自分で漬ければ美味いが、独り身で塩分を控えているので難しい。

40代まではぬか漬けをしていた。定番の茄子・キュウリが美味いが、鰹節や昆布はぬか床の味を良くするだけでなく、それ自体が美味い。

若い頃は固いぬか漬けの鰹節をガリガリ齧っていたが、歯が弱ってからは無理になった。それで、カツオのナマリブシに変えた。ぬか床の酸味が加わりとても美味かった。そう書きながら今も生唾をゴクリと飲み込んでいる。


先日、仕事場の傍らのテレビでタレントたちが河田町にあったフジテレビ跡を訪ねる番組をやっていた。横目で見ると、跡地に高級マンションが建っていて昔日のにぎやかな活気は消えていた。

バブルの頃、仕事であちこちのテレビ局へ行っていた。行った中でフジテレビが一番楽しかった。地下鉄駅の曙橋で下車して通称フジテレビ通りを行くと手前にフジテレビ、奥に東京女子医大病院があった。病院へも診察や見舞いに何度も行ったが、手前でフジテレビが見えると明暗が対比して複雑な気持ちになった。

フジテレビへ行っていたのは劇団七曜日の宣伝美術をやっていた頃だ。フジテレビで収録していた劇団代表渡辺正行氏と劇団やコント大会のポスターの打ち合わせをしていた。打ち合わせはすぐに終わったが、私は居残って局内をあちこち見学した。

当時のフジテレビ社屋は老朽化していて、狭い通路に様々な配管がむき出しになっていた。狭い通路では、当時の売れっ子タレントたちと、肩が触れ合うようにすれ違った。今も鮮明に覚えているのは通路脇の小さなスペースで雑誌のインタビューを受けていた青年だ。彼はTシャツ姿で若々しいオーラを発していた。
「あの子が東山紀之。これから売れるわよー」
同行していた劇団のマネージャーが教えてくれた。

今のテレビ局はどこも個室に変わり、ホテルの通路を歩いているようで味気ない。
当時のフジテレビの控え室は大部屋で、うなぎの寝床のように長い畳敷きの横に化粧台がずらりと並んでいた。そこで出番を待つ若手のタレントたちは、先輩やプロダクション関係者や訳の分からない人たちとごちゃごちゃになって楽しそうに過ごしていた。

大部屋は若手には楽しい交流の場だが、ベテランには評判が悪かった。ベテランはカツラやシークレットブーツの人が多く、それを人目にさらすのが嫌だったからだ。

その後、フジテレビはお台場に移り、ホテルみたいに個室が並ぶ味気ない建物に変わった。NHKは早くに近代的に建て変えられて、今も昔も、民放とは比べられないほど広大だ。打ち合わせに何度も訪ねているのに毎回迷って、目的の部屋に辿り着くのに苦労していた。

その頃のフジテレビは、ちょうど伝説のお笑い番組「オレたちひょうきん族」の絶頂期だった。一度だけ待ち時間にカメラの脇から収録風景を眺めたことがある。出演はビートたけしと明石家さんまを中心に、今大御所になった殆どのお笑い芸人が網羅されていた。その後、これをしのぐお笑い番組は出現していない。見学した時は、黒めがね姿のタモリがソファーで若手たちと談笑していたのが印象に残っている。

その頃、フジテレビの通路で高田純次とすれ違ったことがある。
「お世話になっています」
面識のない彼から満面の笑みで深々と挨拶されてビックリした。劇団のマネージャーに聞くと「彼はそう言う"お気楽な人"です」と話していた。今になるとその意味がよく分かる。


その頃の私は祖母から父へと、母と夜昼を分担して介護していた。私は徹夜で仕事をしながら祖母や父の世話をしていたので、母は安眠できて介護は負担にならなかった。

徹夜仕事では週1回の「ビートたけしのオールナイトニッポン」が楽しみだった。その頃の"たけし"は切れ味が良くて、言葉の一つ一つがアナーキーに鋭くて楽しかった。

その頃はバブル期で、六本木のアマンド辺りは大群衆で歩けないほど混雑していた。その若者たちが分不相応な小遣いを使いまくっていたのだから、景気が良いのは当たり前だった。たけしも、猛烈に稼ぎまくっていた。先のフジテレビ跡地を訪ねる番組では、見知らぬ道路工事の人にまで万札のチップを配り、一晩に数百万を豪遊していたと出演者が話していた。

馬鹿な浪費と思われるが、お金がある者が溜め込まず、散在するのは経済原則に合っている。世界経済が巧く活性化しないのは、少数の富裕層がお金を独占して使わないことに原因がある。

その後、劇団七曜日の宣伝美術時代は終わり、代わって出版社との付き合いに代わった。
こちらは芸能界とはまったく違う楽しさがあった。その頃は父を在宅で看取って負担がなくなっていて、週に二三回は出版社へ出かけて編集者や作家たちと飲んで朝帰りしていた。この時代は、40代に訪れた二度目の青春で、今思い返しても活気に満ちた不思議な時代だった。

M_5

翌日の知事選投票日。
気温が上がって、裏路地の積雪も溶け始めた。
写真は積雪の奥日光遠望。

気になった科学ニュース。

放射性物質の安全化技術の研究がやっと始まった。原発実用化当初から平行してなされている研究だと思っていたが、実際はそうではなかった。

現在、原発の使用済み核燃料は1万7千トンに達している。その中には、ネプツニウム237-半減期214万年、アメリシウム243-半減期7370年など、半減期が長く毒性が強い元素が含まれている。

それらはガラス固化体に加工して、冷却しながら人体への影響が低くなるまで数万年間、地層処分する計画だ。しかし、地殻変動が激しい日本では不可能な保管方法だ。

放射性物質の安全化技術が実用化すれば、それらの問題は大きく解消される。それは毒性が強く半減期が長い放射性物質に中性子を照射して別の物質に変えてしまう方法だ。原理は早くから分かっているが技術的に実用化はとても難しい。

当初、転換の実用化は高速増殖炉原型炉もんじゅで試みるはずだったが、あいつぐ事故で中断してしまった。新しく始まった研究では、容器に入れた毒性が強く長寿命の放射性元素の中心部に鉛やビスマスなどの重金属を配置し、超電導加速器で光速の約90%に加速した陽子をぶつける。

すると重金属から中性子が発生し、放射性元素に衝突して核分裂が始まり、ベータ崩壊して短寿命で毒性が低い放射性物質に変わる。それでも、先に述べたネプツニウム237の場合、10%未満は長寿命のまま残るが、多くは放射能のないルテニウム102とセシウム133に変換される。

その前処理として、今までガラス個体化されて来た高レベル放射性廃棄物から放射性元素を取り出す分別作業が必要になる。ちなみに変換に必要な加速器技術は日本が得意とする分野だ。

陽子を2年間当て続けると放射性元素の大半は短寿命化する。もし理想的に反応すれば、放射能がない物質に変換できる。変換後に生まれた放射能のないルテニウムやロジウムなどの白金属は資源として再利用できる。

それでも危険な放射性物質が残渣として残るが、冷却期間、保管地などを大幅に削減できる。試算では貯蔵面積は従来の100分の1、容積が3分の1になり、貯蔵期間は約300年に短縮する。

Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

« 音楽・文学・絵画において、佐村河内守氏と新垣氏のゴースト関係は普通のことだ。これはソチオリンピックに新垣氏が仕掛けた渾身の逆転劇だった。14年2月8日 | トップページ | 高橋大輔のBGM聴きたさに寝不足。人民日報と韓国主要紙はスポーツも食べ物も世界遺産も国連活動も反日に満ちていた。14年2月14日 »