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2014年3月 8日 (土)

介護の基本は静かに死なせてあげること。シャンプーと養毛剤を止めて1年、髪も頭皮も健康になった。14年3月8日

風は冷たいが陽射しは暖かい。公園のベンチに腰掛けていると、陽光の赤外線が体の中から温めて心地よい。時折、沈丁花の香りが漂い、遠くから小さな子供の可愛い声が聞こえる。この早春の一時は本当にすばらしい。

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友人が倒れてから、老いを身近に考えている。友人は家族の献身的な介護で一命を取り留めて回復した。だが、彼が受けた病院での対応などを聞くと、介護や最期を迎えることの意味を考えてしまう。つくづく、病院は病や怪我を治す場所で、死ぬ場所ではないと思えてしまう。

そのことについて母が生きていた4年前を思い出す。
その時、私は急性胆嚢炎に罹り、近所の病院で腹腔鏡手術で緊急に胆のう切除手術をした。その間、介護していた母の世話ができない。仕方なく、病気でもない母を緊急措置として同じ病院に入院させた。手術は巧く行って5日ほどで退院の予定だった。しかし、抗生剤の副作用が出て8日に延びた。母はその延びた数日の間に、取り返しがつかないほどに弱ってしまった。

原因は不味い病院食で、入院期間中、母は殆ど食べなかった。それに気づいたのは、術後3日目に初めて母の病室を訪ねた時だ。母は頬が痩けてげっそりとしていた。私はすぐに担当看護婦に何とかして欲しいと頼んだ。

「食べられなくても特別な対策はしません。次の食事で補えば済むことです」
看護婦はしたり顔でこたえた。しかし、母はその次も、その次も食べなかった。私は仕方なく、売店でヨーグルトやゼリーなど買って食べさせた。

緊急入院するまで、母の筋力が弱らないように近くの公園で毎日歩行リハビリをさせていた。このまま放っておくと筋肉が痩せて、確実に寝たっきりになってしまう。幸い、姉が連休に入っていたので、毎日、病院に来てもらい母の歩行訓練を頼んだ。しかし、姉の訓練は不十分で、1日1日と母は弱って行った。

術後6日目、母を訪ねると柵に囲まれたベットで訳の分からないことつぶやいていた。傍らのポータブルトイレは使った形跡はない。私は背筋が寒くなった。急いで柵を取り除き母を車椅子に座らせようとしたが、母はまったく立てなくなっていた。私は術後の痛みに耐えながら抱え上げて車椅子に座らせたが、母はろれつが回らず、意味不明のことをつぶやき続けた。

病院の庭へ連れ出すと五月の美しい新緑だった。
「気持ちがいい」
母は初めてまともに話して、いつもの笑顔が戻った。今すぐに退院させれば体力も取り戻せるかもしれない。僅かながら希望を持った。

翌日、私は退院を1日前倒しにして母を家へ連れ帰った。
食事を作ると美味しいと言って食べてくれた。
それから半月ほどで母の頬はふっくらして、周囲が驚くほどに回復した。しかし、母はそれが限界で、6月に入ると急速に弱り、7月1日に在宅で私に看取られて97歳で死んだ。

死ぬ前、往診した家庭医に入院を薦められたが断り、酸素吸入器やタンの吸引機を手配してもらって対応した。在宅で死を迎えることは生前の母と幾度もなく話し合って決めていたことだったので、迷いはなかった。

迷いなく在宅で看取ったが、その後、私の対応は間違いだったのではと後悔した。

それから4年過ぎた今は違う。人は必ず死ぬもので、住み慣れた家で家族に看取られるのが一番の幸せだと、確信している。

介護の基本は終末期を出来るだけ長く幸せに過ごさせて静かに看取ることにある。しかし今は、長く生きることに拘るのは間違っていると思っている。なぜなら、むち打つように生かし続けても、苦痛が増すだけだからだ。

母の終末期、私は励まして食べさせ、リハビリを無理強いしてしまった。今振り返ると、励ましは母にとって苦痛だった。

老人は終末期にしばしば「早く死にたい」と言うが、家族はただの気の迷いと考えてしまう。確かに、本当は生きていたいのに「早く死にたい」と言うのは矛盾している。だが、最期は死に抗わないのが自然で一番楽な死に方だ。

昔、林に囲まれた家に住んでいた頃、死期が迫った野良猫を庭で幾度も看取った。彼らは実に澄み切った瞳で、何も期待せず静かに死んで逝った。野生の死はどれもそのようなものだ。

最近、介護の基本は野生動物のように速やかに安らかに死を迎えさせることにあると考えるようになった。叱咤激励して生かせ続けても、それで延びる命はとても短い。

友人が死にかけてから、最期の迎え方をしきりに考えるようになった。
友人の場合、硬膜下血腫の緊急手術の後、回復期に入っていたのにも関わらず、母が受けたのと同じような酷い介護で、症状は悪化する一方だった。

家族は病院の対応に疑問を抱き、在宅で死なせようと退院させた。しかし、家に連れ帰ると彼はめきめき回復して、半月後には仕事に復帰した。これは優秀な医師が治療に成功しても、問題だらけの介護によって患者の予後が悪くなる典型かもしれない。

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昭和初期の母の写真を見つけた。
近所の集まりで撮った集合写真だ。上列右から二人目のパーマをかけているのが母。他の人が顎を引いて暗く写っているのと違い、挑戦的に顎を前に突き出している。子供の頃、この母の凛とした顔が好きだった。

先日、日テレ「ダーツの旅」で所ジョージが高知の酒蔵を訪ねた。その時、試飲した絞りたての日本酒は炭酸味がして大変おいしいと彼は感動していた。炭酸は抜いて瓶詰めして出荷するのでこの味は市販品では味わえない。

赤羽には都内唯一の酒造メーカー小山酒造がある。昔は新酒の頃に炭酸味のどぶろくを売っていた。どぶろくは酵母が生きていて炭酸ガスを出し続けているので、経木をブリキの金具で押さえて蓋をしてあった。この炭酸味がする酒も大変美味しかった。

ケフィアヨーグルトも30度以上で発酵させると、含まれている酵母の働きで炭酸味になる。先日、魔法鍋で36度のお湯にヨーグルトの容器を漬けて発酵させたら炭酸が出て美味しかった。この場合、乳清と分離した固形分はチーズのようでとても美味しく、炭酸味がする乳清も美味しい。

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郷里、日南のストリートビューの1場面。
60年前、一度だけ、父と1里ほど歩いて姉の中学校へ行ったことがある。そのころは砂利道で、電柱は丸太製だった。父は歩きながら、一番上の3本の電線は3相交流だと説明してくれた。そのことが、強く記憶に残っていて、その頃と同じ姿が今も残っていることに驚いた。

若い頃、アレルギー体質で湿疹に悩まされていた。それで、片っ端から様々な療法を試した。その中で、敗戦後の皮膚科医の記述に興味深いものがあった。

彼は進駐軍兵士たちかの湿疹について相談を受けて原因を研究した。
調べてみると、彼らは米国と同じようにバスタブに石けんを入れ泡立てて入っていた。米国の水は硬水で石けんで泡立てても脱脂力が弱く、皮膚トラブルは起きなかった。しかし、日本の水は軟水で脱脂力が強い。そのため、バリアの皮脂が抜け過ぎて湿疹をおこしていた。そこで、石けんを止めさせ、シャワーを浴びるだけにさせたら湿疹は直ぐに快癒した。

その頃、私は30代だったが、それに従い石けんも垢こすりも止め、シャワーで丹念に洗い流すだけにした。すると、湿疹は軽快して気にならなくなった。

それ以来、石けんは汚れた手を洗う以外使ったことがない。その頃、同様に母も石けんを止めさせた。老いて入浴介助してもらうようになった頃、ヘルパーが母の肌は90歳を過ぎても水をはじき、若い人の肌みたいに張りがあると話していた。

その頃、シャンプーもしない方が良いと文献で知った。しかし、油性のポマードを使っていたので、止めるのは無理だった。

最近はポマードは止めて、ハンドクリームを髪に使っている。これだとシャンプーなしでも洗い落とせる。それで、1年前からシャンプーを三日おきに使うようにした。すると、頭皮の状態がとても良くなった。

更に半年前から思い切ってシャンプーも養毛剤も総て止め、毎日、シャワーで洗い流すだけにした。すると頭皮と髪の状態は更に良くなった。現在の髪の毛は気のせいか、以前より腰が強く丈夫になった気がする。頭皮の油は抜き過ぎると、その刺激で油分が過剰に分泌されるそうだ。命も頭皮も髪も、自然に任せるのが一番良い健康法なのかもしれない。

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Goof

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