骨粗鬆症の新薬と、宛もなく友だちを訪ねる寂しい老人。14年3月15日
知らぬ間に、骨粗鬆症の薬が進化していた。
11年前、母は腰椎を圧迫骨折してから、アレンドロン酸ナトリウム(製品名フォサマック)を1週間に1錠、朝起きるとすぐに飲んでいた。その薬は破骨細胞を抑制して骨吸収を防ぎ、骨密度と骨強度を高める作用がある。
用法は面倒で、朝一番にコップ1杯の水で飲んだ後、逆流して食道を痛めないように30分は横になれなかった。当時、数少ない骨粗鬆症の薬で、長期間服用しないと効果はなかった。だから、母は圧迫骨折を起こす10年前から服用する必要があり、手遅れだった。しかも胃を荒らし、老いて食欲をなくした母には不向きで、晩年は飲ませるのを止めた。
母が死んでから4年が過ぎて、NHKの健康番組で、理想的な骨粗鬆症の新薬ができていると知った。薬品名はデノスマブ(製品名プラリア)で、半年に1回注射すればよく、番組で紹介されていたおばあさんは2回目の注射で劇的に骨粗鬆症が治っていた。デノスマブの作用もアレンドロン酸ナトリウムと同じで、破骨細胞を抑制して骨吸収を防ぐが、効果は格段に強力になっているようだ。
もし、母が元気な頃にこの新薬が登場していたら、車椅子生活にならず、私も介護で苦労することはなかった。しかし、母は車椅子生活になったことで、毎日私と3時間散歩して知らない場所へ連れて行ってもらい、喜んでいた。
赤羽は旧軍都で至る所に桜並木がある。
「一生で眺めた桜の10倍は花見が出来た」
母は桜が咲くと、いつも目を細めて同じことを言っていた。
骨粗鬆症にならなければ、私は熱心に世話をしないので、母は家に閉じこもることになった。車椅子生活になって私と毎日散歩に出かけた方が良いのか、その判断は難しい。
番組では骨の中にある骨細胞の効能も説明していた。
骨細胞は刺激を受けて活性化すると、体に有用な様々な物質を出して、リンパ球を元気にしたり、免疫力を高めたり、代謝にも大きな役割を持っている。だから、骨細胞が弱ると病気や糖尿病になりやすくなるようだ。骨細胞は、走ったり階段下りをして骨にトントンと刺激を与えると活性化する。
緑道公園のプラタナス。
14日のNHK「ちょこっとサイエン」は、牛のゲップの成分はメタンガスで、1頭分で1日冷蔵庫を動かす力があるとか、とても楽しかった。
殊に面白かったのは涙の効用だ。脳科学の東邦大学有田秀穂名誉教授によると、一度泣くと、一晩眠ったのと同じだけのストレスを取る効果があるらしい。
涙活と呼ばれる健康法があるが、週に一度、哀しいドラマなどを見て泣くと体調が良くなる。他にも、デート前に泣いてから出かけると表情が優しくなってデートが巧く行くとか、試合前に皆で泣くとリラックスして実力が出せるとか、私の体験でもとても納得できる。大事な会議などで緊張する人は、その前に思いっきり泣いておくと良いかもしれない。
夕暮れ、散歩へ出ると一階エントランスの隅に老人がうずくまっていた。
膝の上にタオルをかけ、痩せて小柄な体がいっそう寒そうに見えた。
「大丈夫ですか」
心配になって声をかけた。
「大丈夫だ。友だちが帰って来るのを待っている」
意外に大きな声だった。
聞くと1時間半くらい待っているようだ。
「お友だちに電話されては・・」
助言したが、携帯は持っていないし相手の電話番号も知らないとそっぽを向いた。
「寒い所で待っていたら風邪引きますよ」
壁の郵便受けを覗きながら言った。
「交番で相談した方がいいかね」
老人が背後から声をかけた。
彼は午前中も交番で相談したから、もう一度行ってみようかと話した。
どうやら1日、宛もなく出入りしながら友だちを待っていたようだ。
しかし、友だちを訪ねたのなら、手みやげを持っていたりするが手荷物はない。
本当は友だちを訪ねて来たのではなく、何か訳があるのかもしれない。
「もう一度、交番へ行って、相談したらいかがですか」
外へ出る前に言うと、老人はしゃがんだまま「そうする」とこたえた。
重い気分で夕暮れの道を歩いた。
「気の毒ね、帰る家がないのかもしれないよ」
死んだ母がふいに話しかけた。
「ほんとだね」
私は独り言でこたえた。
いつも普通に死んだ人たちと独り会話をしている。
少し頭が変になったのかな、と思うことがあるが、三陸大津波以来、TV報道で同じような光景をよく目にする。どうやら、家族と死別した者に共通の現象のようだ。
煌煌と月が出ていた。
昼間は暖かかったが、風が冷たくなっていた。
帰りは先ほどと違う入り口から入った。行きがけのエントランスにまだ老人がいたら、気まずいと思ったからだ。
この住まいは家族持ちばかりで、夜に突然訪ねて来た老人を受け入れる家庭はない気がする。交番へ行って、巧く対応してもらえたら良いのだが、そう思いながら階段を上った。
宇津井健が82歳で死んだ。彼が出演していた作品では、どれも存在感のある誠実な脇役を演じていた。彼の死に、昭和の良い部分が終わったのを感じた。
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