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2014年4月11日 (金)

STAP細胞の小保方氏の記者会見とその後と、私のビックデータ。14年4月11日

記者会見とその後の報道に対して、科学者や科学ジャーナリストの論点が大きく狂っていると感じた。それは、殆どの関係者が結果より経過を記した論文が重要と述べていたことだ。NHKの若手科学解説者までが、結果より論文が重要と言い切っていたのには、びっくり仰天してしまった。

科学において、一番重要なのは結果で、論文はそれを広知させたり権利確保のため、二次的に重要なだけだ。ただし、実験ノートを正しく記したり正確な論文を書くことに合理性はあり、小保方氏は会見でその不備を深く悔いていた。

今回の問題点は彼女がSTAP細胞を世の中に示していないことにある。もし、彼女がSTAP細胞を世間が理解できる形で発表するか、彼女の助言で、誰かが制作に成功していたら、これほどの問題にはならなかった。

ただし、今回の会見で、彼女は第三者を含め、間違いなくSTAP細胞に成功していると言っている。もし、彼女が主張しているSTAP細胞が違うものなら、理研は公の場で、しっかり反論すべきだ。そのような科学的なやり取りが見えないことに、世間は苛立っているのだと思う。

科学においては、経過より結果が最重要である。少々、経過がいい加減でも結果が事実で正しいなら、それは認められる。論文は結果への後付けでも問題はない。世界の歴史的な大発見の多くは偶然の結果で、その後に理論付けが行われた。

それを例えで説明すると・・・
私はリンゴの紅玉が大好きで、あの酸味と香りは果物素材としても最高のものだ。
その紅玉を誰かが偶然に作り出したと仮定する。
しかし、制作者が発表した紅玉の作り方は非科学的で、誰にも理解不能で、再現も出来ない。その場合、世間は紅玉の作り方を誰でも分かるように発表するように要求はするが、紅玉そのものを否定したりはしない。

今回、小保方氏を非難している人たちの多くは、結果より過程が重要だと言っている。例えるなら、それはホームランを打ったのに打撃ホームが悪いと非難する解説者に似ている。昔、高校野球でバントを命じたのにホームランを打った打者を叱責した高校野球の監督がいたが、そのような解説者や監督に、小保方氏を非難している科学関係者はとても似ている。

今回の騒動で、国民が欲求不満になっているのは、最重要事項のSTAP細胞有無の精査ではなく、論文の不備などの枝葉に追求が終始しているからだ。本当は論文取り下げを表明している共同執筆者たちが会見して、疑問に応えれば解決は早い。彼らがそれをしないのは、STAP細胞を否定できないから、と疑われても仕方がない。

ちなみに山梨大の若山教授はオスのマウスからSTAP幹細胞が作れたと話している。幹細胞は他の細胞に変移できる細胞で、普通に骨髄や皮下脂肪で作られているが万能性はない。しかし、通常細胞をSTAP幹細胞に変えられるだけでも未知の可能性を感じる。

今回、マスコミ各社は、色恋問題とか学界から消えろとか、ピントがずれた攻撃ばかりしている。そんなことより実験費をカンパして、小保方氏に独自にSTAP細胞再現の実験をさせてみたらどうだろうか。結果の成否に関係なく、視聴率の取れる企画だと思うが・・・

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写真は10年昔の4月の奥秩父。
今は手前に大きなマンションが幾つも建設されて風景は変わってしまった。

昨夜のEテレで、ビックデータについて触れていた。その量は兆の数十億倍バイトほどで、1バイトを砂粒一粒に換算すると、地球上の総ての砂粒より多くのデータが溜まっているようだ。

以前、庭石と万年筆の検索をしたら、今は他のサイトを開く都度、庭石と万年筆の広告が入る。無料のネット新聞を読むと、結婚相談所・ED・墓地の広告が入る。私はEDではないし、墓地にも結婚にも興味ない。多分、私が独り身の老年なので、それらを含むビックデータからGoogleあたりのコンピューターが推測して、広告を掲載しているのだろう。

正直言って、それらは的外れの効果のない広告だ。ビックデータの活用は始まったばかりで、ドキッとするほど的を得た広告が入るには、まだまだ時間がかかりそうだ。

パソコンを始めてから15年が過ぎた。
始めたのは20世紀末で、当時は2000年問題が騒がれていた。インターネツトやパソコンが2000年の年代変移に対応できず、大停電とか交通機関の混乱とか、銀行業務が停止するとか、大災害がおきると予測していた。しかし、実際は何事も起きず2000年を迎えられた。

私自身のビックデータは私のハードディスクに残されている。
今、そのような個人が所有するビックデータを、持ち主が死んだ後、どうするか問題になっている。生きていて経済力が有れば、ネット上のブログやホームページのデータは何とか維持できるが、死んだ後は難しい。

この問題は、アナログ時代から大問題だった。
先日、旧知の画家が、急死したカメラマンだった夫の遺作展をやった。行くと、段ボール箱に入れた膨大な4×5のポジフイルムが会場床一杯にあった。彼女は来場者総てに2,3十枚の風景写真のポジを紙袋に入れて配っていた。

「いずれ私も死ぬことになるし、子供はいないので、ゴミとして処分されるより皆に配ってしまおと思って・・・」
彼女は寂しそうに話していた。

それは人ごとではなく、私にも大量の作品がある。生きているうちに売りつくせたら良いが、残った作品の行く末はとても気になる。

そんなことを考えながら、仕事に必要な画像データを探していて、上の奥秩父の写真を見つけた。

今日は床屋さんに行ってすっきり刈ってもらった。
あまりに気持ちが良いので記念写真を撮った。
その後、過去の自分の写真と並べて、心の変遷と老いの変化を眺めてみた。


M_54Yoko2M_62M_63M_63bM_63cM_65cM_69b写真1。バソコンを始めた頃の私54歳。

仕事は順調で生活は安定していた。

デジカメは250万画素で当時としては高性能だった。

今は携帯のカメラより劣るが、デジカメで写真を撮るのが楽しくてたまらなかった。


写真2。私56歳。絵描き仲間4人で横浜へ行った。

撮ったのは版画家の菊池氏。

この頃までは皆ノーテンキに楽しく生きていた。

右から2番目は宮トヲル氏で、2010年の4月末に急死した。

のんびり暮らせたのはここまでで、直ぐに母の介護が始まった。


写真3。私61歳。母の介護を始めて4年目。

肝臓ガンの大手術の後、一時回復したが再度母は弱り始めた。

今見ると表情に憂いがある。


写真4。私61歳。
大変親しかった知人の葬儀の時。珍しいネクタイ姿。


写真5。私61歳。急変した母を緊急に診療所に連れて行った。
ベットに横になっている母は死にかけていた。

この時は点滴で回復した。

しかし、母の便に潜血反応があり、精密検査のため入院することになった。

この写真の数日後、母は再度重い脱水症を起こして、東京北社会保険病院に緊急入院した。

原因は急性胃潰瘍の出血に寄るものだった。

適切な治療で母は窮地を凌ぎ、回復して1週間後に退院した。


写真6。私61歳。自然公園の古民家でホッとしている私と元気になった母。

この辺りから、母は階段をゆっくり下りるように弱って行った。


写真7。2010年、私65歳。

母と死別して1ヶ月後の8月。

喪失感が強く、心の解決の宛はなかった。

この辺りから、死別の哀しみはより深くなり始めた。更に、8年間の介護生活により、体もボロボロになって生活も破綻寸前まで追い込まれてしまった。


写真8。2014年4月10日、私69歳。

先日、外出から深夜に帰宅途中、濡れた桜の花びらの吹きだまりで滑って転んだ。勢い良く歩いていたので、宙に浮くくらいの転びようで、右ひざと左手を舗道に激突させた上、顔面も打ち付けてしまった。幸い、つば付きの固い帽子を被っていたので、大事には至らなかったが、右ほお骨を打ち、内出血してしまった。

転んで顔を打ったのは初めての経験だ。歳のせいで反射神経が鈍くなったようだ。腫れはかなり引いたが、写真でも、右ほほが腫れているのが分かる。

死別してから4年。今はようやく一人暮らしに慣れたが、寂しさは消えない。これからどう生きて行こうか、悩み多い日々だ。


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