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2014年4月13日 (日)

新発見の竜馬の手紙・帰宅するのにパスポートが必要な横浜の日本人家族・根岸競馬場の廃墟。14年4月13日

土曜夜のNHK突撃アッとホームは「坂本龍馬の最後の手紙・大発見」だった。
その大発見は、お笑い芸人のバイきんぐが谷中を歩いている人に声をかけ、思い出の大切な品を紹介して貰う番組で起きた。声をかけられた主婦はナウマンゾウの歯を紹介しようとしたが、つまらないので、バイきんぐは他に変わったものはないかと尋ねた。すると、父親が30年前に骨董店で1000円で買った竜馬の手紙があると言う。竜馬の手紙と称する殆どは偽物と言われているが、面白いので二人は国立の自宅を訪ねた。

「竜馬先生からの手紙」と箱書きされ手紙は居間に無造作に置かれ、いかにも偽物臭い。二人は半信半疑、高知の竜馬記念館まで手紙を持って行った。学芸員二人は、また偽物かと言った態度で手紙が表装された巻物を広げた。すると、学芸員の表情は見る見る変わった。

記念館に所蔵されている本物の竜馬の手紙は、字が揺らいだり大小に変化したり、幕府の「幕」の草冠の縦線1本が共通して長い。それらの特徴の総てがその手紙と一致している。しかも手紙は下書きで、一般に知られていない歴史的な事実の訂正箇所などがあって偽物とは考えにくい。

後日、番組スタッフが下関市立長府博物館と京都国立博物館に持って行って鑑定してもらうと、間違いなく本物だった。

手紙は坂本龍馬が暗殺される直前、土佐藩の重臣後藤象二郎に宛てた手紙の草稿だった。
慶応3年10月14日大政奉還の10日後、龍馬は京都から福井藩を訪れて三岡八郎と面会した。三岡八郎は福井藩で財政改革を成し遂げた有能な人物だ。

龍馬の使命は土佐藩・山内容堂の手紙を福井藩・松平春嶽に手渡すことだったが、本当の目的は新政府の財政担当者を探すことだった。龍馬は三岡を高く評価していた。2人は会談で新政府の財政のありかたについて熱く論じた。

手紙で龍馬は、三岡と新政権のシステムをどうするか生々しく論じたとあった。清書して土佐藩へ送られた手紙は現存していないので、それは歴史資料として第一級の大発見になった。

竜馬は手紙で、大政奉還後の新政府の財政担当者として福井藩士の三岡八郎を推している。手紙は龍馬が暗殺される近江屋事件直前の慶応3年11月5〜15日に書かれていたので、それが竜馬最後の手紙となった。

後年、三岡八郎は新政府の「五箇条の御誓文」の起草に参画し、財政政策に携わる重要人物となった。龍馬が福井藩を訪れたことは三岡の回顧録にも記録されている。

番組でバイきんぐの二人は大発見は自分たちの功績だとアピールしていたが、確かに彼らの功績だ。ちなみに、骨董価値は1500万程。持ち主の主婦は裕福な人のようで、手紙は龍馬記念館に寄託され、近日中に公開される予定だ。

彼女の父親は手紙の内容を読んで本物と確信し、知人たちには竜馬の手紙を持っていると話していたが、信じてもらえなかったようだ。書体を似せた偽物は多くあるが、一般に知られていない歴史的事実の訂正箇所までは偽造できない。彼女の父親は見識があったから1000円と格安で買えたのだろう。

番組後半では、お笑いのチャンカワイが十条で幸せレター探しをした。十条銀座で会った主婦は、ぐれていた中学時代、若い恩師から貰った励ましノートで立ち直ったと話した。そして恩師との感激の再開になるのだが、私はそのシーンより十条銀座に懐かしく見入ってしまった。

十条は赤羽から今直ぐにでも歩いても行ける場所で、昔、9年間暮らしたので隅から隅まで知っている。それなのに、画面がとても懐かしく感じたことが不思議だった。その懐かしい感覚は赤羽の風景がテレビに出ても感じる。

最近、人気が上昇している赤羽の飲食店街はよくテレビに登場する。自然豊かな散歩コースも度々紹介され、懐かしく感じる。どうやら、現実を動画に撮ると懐かしい過去になってしまうようだ。

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緑道公園のジューンベリーの花。6月には濃赤紫の甘い実を鈴なりに付ける。

今日、テレ朝の昼間の番組で根岸の米軍キャンプ内に住んでいる日本人家族を紹介していた。台所の片付けものをしながら切れきれに観ていたので、正確ではないが、戦後米軍が接収した時、そこだけ取り残されたようだ。

格闘家の高田延彦がレポーターとして訪ねるのだが、キャンプに入る時、入り口で日本国パスポートを提示しなければならなかった。住んでいる家族も常時パスポートを持っていないと自宅に帰宅できない。

先日、その家の主人が心臓発作で倒れた時は、救急車が入れなくて命を落としかけた。後日、横浜市と防衛施設庁との話し合いで、緊急に入る方法が講じられたが、国内にそのような場所が有ることに驚いた。

その家族は周囲の米軍住宅に住む軍人たちのいたずらや嫌がらせで困ることがあるようだ。グーグール地図でその家を探すと、広い芝生に囲まれた米軍住宅とまるで違う敷地の青屋根の家があるので分かる。


その次は、米軍キャンプ近くの戦前の日本最古の根岸競馬場跡を訪ねた。
それは廃墟愛好家の間で大変人気の有る建物だ。近年、米軍管理下から横浜市に返還されたが、スタンド側から米軍基地が見えるので、改修が出来ないと関係者が話していた。その理由では意味不明だが、日米間にそのような取り決めがあるのかもしれない。

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案内板に使われている建設当時の写真。
幕末、居留外国人の簡易競馬の娯楽施設だったが、その後、昭和初期に本格的な根岸競馬場が作られ、戦後は米軍に接収された。

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番組に出ていた廃墟がすばらしかったので、この写真を他のネットで探して借用した。

廃墟は根岸森林公園の一角に残っていて、これもGoogle地図に写っている。

この美しい建物が改修されたら、歴史的な建物として人気がでそうだ。今のように朽ちるに任せているのは実にもったいない。暇ができたら、現状が保たれている内に写真撮りに訪ねてみたい。

戦前、この建物が建てられて間もない頃、若い母は久留米から競馬をしに来ていた。
当時は、1等と2等の観客席があり、母の思い出では1等席は華やかな社交場になっていた。馬券も今の貨幣価値で10万単位で、今の庶民的な競馬所の雰囲気とはまるで違ったようだ。母は10万単位で馬券を買っていたと話していたが、実際は一般向けの馬券もあったと考えるのが自然だ。

S_9そのような思い出を母から聞けたのは、母の車椅子を毎日押していたからだ。

3時間程は車椅子を押していたので、母はその間、それまで話さなかった思い出を実に沢山話してくれた。

根岸競馬場で知り合った人たちの思い出も楽しかった。

その頃、親しくなった中国の若い外交官は横浜の山手にお屋敷を構え、本国から多勢の召使いと料理人を連れて来ていた。

招かれて行くと、その都度、満漢全席にあるような珍しい豪華な料理をごちそうしてくれた。

以前ブログに書いたが、母は数年後、彼の人脈を頼って家出して満州へ行った。


写真の頃に母は、梅雨の冷たい雨の日にお台場で泳いで風邪を引き、こじらせて肋膜炎を起こした。肋膜炎は結核の一種で、当時は助からない死病と言われていた。

母は稲毛のサナトリウムに入院して、1年後に治って退院した。当時は結核の薬がない時代で、栄養のある食事を摂って、空気の清浄な場所でのんびり過ごすことが唯一の治療方法だった。

大柄な母は体力があり自然治癒したが、殆どの患者はそのまま再発を繰り返して死に至った。だから、母が退院する時、入院していた若い女性が、寂しげに見送っていたと母は話していた。

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戦前、稲毛海岸にあったサナトリウムを検索してみたら、額田研究所サナトリウムがあった。東邦医大の創立者が昭和初期に設立したもので、母の話と符合するが確信はない。

写真は絵はがきになっていた額田研究所サナトリウム。絵はがきにされるくらい有名だったようだ。
もし母が生きている頃に見せたら、真偽が確かめられた。当時の稲毛海岸は海の見える別荘地でもあり、他にもサナトリウムは沢山あったようだ。

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