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2014年5月 8日 (木)

母親との死別に苦しむ人たち。その受け入れ方には流儀がある。14年5月7日

呉須のウサギ模様の小鉢を割ってしまった。
その小鉢は子供の頃から使っていた。その頃は家族の人数だけ揃っていたが、そそっかしい母のおかげで次々と破損し、60数年を経てその一個だけになった。
その母とは死別してから5年が過ぎた。
所詮、常なるものはない。
思い出とともにこみ上げた寂しさを無理に飲み込んだ。

誰でも親しい人や馴染んだものを次々と失いながら生きている。
どんな権力者でも、資産家でも、やがては親しい人や健康を失いない、最後は身一つの死に行き着く。

先日、「失楽園」作家の渡辺淳一が死んだ。
彼は医師で、若くして文学の才能を認められた。
彼は成功者である上に恋多き人で、誰もが羨む人生を送った。
しかし、晩年に前立腺がんを患ってからは「まだ死ねない。やり残したことが多くある」と現世への思いを残した。
彼がそうだとは思っていないが、成功者や権力者たちの多くが終末期に生に執着して苦しむ。ピカソは終生死を恐れ、近親者の葬儀にも決して参列しなかった。

「どんなに金をかけても、生かせておいて欲しい」
自分の死期が迫った時、狼狽し医師に懇願する者に権力者や成功者が多い。彼らは失うことに慣れていない。障壁を力ずくで組み伏せて来た人生によって、生命までも自分の意のままになると錯覚しているのかもしれない。

失い方には流儀がある。
親しい者たちと別離して哀しみ、老いて病み、死へ辿り着くのは自然なことだ。死も病も孤独も自然に受け入れられる者は、人生のレールから外れても落伍者ではない。どのような境遇でも否定せず素直に受け入れ、周囲に感謝を伝えるゆとりがあれば良い人生になる。

NHKのあさイチで「母親の死・どう向き合いますか」をやっていた。
あさイチが1600人に行ったアンケートでは、母親と死別した人たちの25%は3年4年と哀しみを乗り越えられないでいた。更に2%は10年を経ても哀しみは増すばかりで、治療が必要な鬱を発症していた。

母が元気な頃、毎日、車椅子で近くの自然公園へ連れて行っていた。
都内の自然公園は老人たちの憩いの場で、いろんな老人たちが私たちに声をかけた。

10年ほど前、その中の80過ぎのおじいさんが言ったことが深く記憶に残っている。
「この歳になっても、50年前に死んだ母のことが1日も忘れられない。もう一度会って話ができたらどんなに良いだろう、と今も思っている。だから、お母さんは生きている内に大切にしな」
彼はそんなことを話した。
彼の言葉に対し、私が80過ぎた頃は母のことなど気にしていないだろう、と聞き流した。
しかし、今は違う。彼のように死ぬまで忘れられないと思っている。

番組では死別後に、誰でも次のような症状が現れると言っていた。
母親の死を信じることができず、常に非常に強い孤独感や寂しさがある。
故人のことが頭から離れないまま感情が麻痺し、自分の一部まで死んでしまったように感じる。
母親の遺品を整理できず、故人を探し追い求め、今も生きているかのようにふるまう。
街中で、故人と似た人の面影を追いかけてしまう。
強い怒りやイライラが消えず、故人や自分に対する怒り、自分を責める気持ち、治療した医療機関への憎しみが消えない。
故人の思い出を避け、将来への不安に囚われ、未来に目的がなくなり無意味だと感じる。

それらは多かれ少なかれ、母親と死別した者なら誰にでも起きる。
しかし、1年過ぎても強く持続し、日常生活に支障をきたす場合は、「複雑性悲嘆」として専門的なケアが必要とされている。それは母ロスと呼ばれ、番組はそのような状態に陥らない療法を提示していた。

その一つが米国・コロンビア大学のキャサリン・シア博士が開発した心理療法・CGTと呼ばれる方法だ。その中の筆記療法は簡単で、誰にでもできる。たとえば、一人で家にいる時、散歩している時、友だちと談笑している時、様々な場面での哀しみの大きさを1点2点と記録する。そうすることで、いつも悲嘆に暮れている訳ではないと自分を客観視できて、やがて、哀しみから解放されて行く。

他にも、絵を描いたり音楽に親しむのも効果がある。
私が8年間介護した母と死別した時は、散歩が一番有効だった。
筆記療法については、母の介護をしながら死の予感を繰り返しブログに書いた。

・・・やがて母は逝くだろう。その時、風の音を聞きながら、杖をついて、そろそろと歩く母の後ろ姿を思い出すかもしれない・・・
これは11年前の記入だ。
その予感通り、母との死別後に同じシーンを幾度も体験した。
その頃、哀しみはとても強かったにもかかわらず、仕事も家事も散歩も遊びも続けることができた。それはプログを書くことで自分を客観視できたからだ。

あるいは「私は今、鬱ではないかと心配している」などと独り言をつぶやくと、自分を客観視できて効果がある。
今も哀しみは毎日のように蘇る。
しかし、哀しみと明るさは共存している。
哀しみがあれば、日常生活の中のささやかな温もりに感動できる。
両者は車の両輪のように大切な関係で、明るいだけでも悲しいだけでも不自然になる。

母は10代の頃、溺愛してくれた祖父と死別し、その哀しさを90歳過ぎても昨日のことのように辛いと話していた。と言っても、母は常に悲しんでいた訳ではなく、普段は明るく陽気に過ごしていた。それは私もまったく同じだ。
母と同じように、私の哀しみも死ぬまで続くと思っている。日常生活に支障がないなら、死別の哀しみを持続させても弊害はない。むしろ、哀しみは感性を豊かにし、人を優しくする利点がある。

普通の死別は突然ではなく、猶予期間を経て訪れる。介護期間はまさしくその猶予期間で、私の場合、日に日に弱って行く母に緩慢な死を感じて、やがて必ず訪れる死別の喪失感を明瞭に予感できた。だから、在宅で一人で看取り、激しい哀しみに囚われたにも関わらず、いつもと変わらず、雑事をこなすことができた。

しかし、交通事故や三陸大津波による遭難のように、突然の死別では「複雑性悲嘆」を避けるのはとても難しい。
それを避けるには、子供の頃から死と向き合う必要がある。
最近は病院で死ぬケースが多く、昔のように子供たちが死に接する機会は激減した。子供に死別のショックを与えてはならないとの配慮だが、その結果、子供により辛い思いをさせてしまっている。

幼時から死に向かいあうことは大切なことだ。大河ドラマ「軍師官兵衛」では、多くの突然の死別が登場する。当時の武家では幼時から死と向き合う教育がなされ、今程に「複雑性悲嘆」に陥る人は多くなかった。

「複雑性悲嘆」に陥った遺族に対処する周囲は注意が必要だ。
周囲の者は、遺族にただ寄り添い話を聞いてあげることに尽きる。
間違っても「早く哀しみから立ち直りなさい」とか「悲しんでいると死んだ人の魂が浮かばれませんよ」とか、励ましてはならない。遺族が悲しんでいるのは、それらが出来ないからで、それができる強い人なら、他人の手助けを必要としない。

しかし、寄り添ってくれる優しい人がいない孤独な人もいる。
その時は、鏡に向かって鏡に写った自分に優しく話しかけ、大泣きすると効果がある。ちょっと恥ずかしい光景で、実行には勇気がいるが、れっきとした心理療法の一つだ。
本当に辛い時、試してみる価値はあるかもしれない。

悲嘆することは立ち直る為の自然な生理現象だ。
悲嘆し涙を流すことで、大切な人を失った苦しみから解放されて行く。
間違った励ましで、その生理現象を押さつけると、内に籠った悲嘆の感情は肥大化し、病的な鬱へ進行してしまう。

「複雑性悲嘆」への心理療法では、故人と自分の関係を真剣に考えて納得できる物語を紡ぎ出し、様々な気晴らしをすることで回復の道筋が生まれる。
そうすることで遺族は死をしっかりと受け入れ、思い出を大切にしながら、故人のいない新たな生活や自分の役割を見いだすことができる。

母は5人の子供を産み、その内2人に先立たれた。
残った3人の内、母をしっかりと記憶しているのは母を介護し在宅で看取った末子の私だけだ。母と離れて暮らしていた兄姉の母の記憶は私より薄く乾いている。

死者は誰かに記憶されることで生き続ける。だから、たとえ哀しみを伴っても、死者の記憶は大切にすべきだと思っている。
悲嘆にも良いことがある。
悲嘆に苦しむと、自分の病や死を素直に受け入れられるようになる。
それは、絶望的な喪失感に晒されている内に、悟りや諦観を身につけるからかもしれない。遺された者の悲嘆は死を真剣に考えることから生まれる自然な感情で、人生にとって大切なことを、その苦しみから学ぶことができる。
脳科学の東邦大学有田秀穂名誉教授によると、一度泣けば一晩眠ったのと同じだけのストレスを取る効果がある。
それに関連して「涙活」と呼ばれる健康法がある。
週に一度、哀しいドラマなどを見て泣くと体調が良くなる。
デート前に泣いてから出かけると表情が優しくなってデートが巧く行く。
試合前の選手は泣くとリラックスして実力が出せる。
重要な会議で緊張する人は、その前に思いっきり泣いておくと巧く行く。
だから、辛くて悲しい時は我慢せず思い切り泣くといい。

Ms_1
午後5時。ノイバラの白い花と三日月。
ともちゃんちに筍を貰いに行った。
ともちゃんは23歳の可愛い女の子だ。
かぐや姫が入っていたら良いな、と思ったが、既に茹でてあってかぐや姫の生存は無理だった。
もし、かぐや姫を捕まえたら、小さいうちはポケットへ入れてディズニーランドに連れて行って、美人に育ったらタレントにして、左団扇で悠々自適に暮らそうと妄想した。

アマゾンからのDMでクレヨンのぺんてるの広告がどかっと来た。
先日、子供の頃に使っていたぺんてるクレパスが今もあるかどうか検索したからだ。検索はGoogleだったが、その情報はアマゾンに売られていたようだ。インターネットは大変に便利な無料の機能だが、本当はタダではないことがそのDMで分かった。ただし、その広告はまったく効果はない。

ストリートビューにタイムマシン機能が付いた。
写真は石巻市の海岸沿いの道だ。

Ms_2
2008年の海岸近くの道。

Ms_3
2011年の大津波直後。

Ms_4
現在の、瓦礫や廃屋が取り払われた風景。

東京新橋のストリートビューのタイムマシン機能では、5年の間に店の半分が入れ替わっているのが分かる。
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近況・・・絵本「おじいちゃんのバス停」を完成させて、Amazon Kindleの電子図書 にてアップした。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0B79LKXVF
Kindle Unlimited 会員は0円で購読できる。
上記ページへのリンクは常時左サイドに表示。画像をクリックすればKindleへ飛ぶ。

絵本の内容・・おじいちゃんのバス停・篠崎正喜・絵と文。老人と孫のファンタジックな交流を描いた絵本。
おじいちゃんは死別した妻と暮らした家に帰ろうとバス停へ出かけた。しかし、家は取り壊され、バス路線も廃止されていた。この物語は、20年前に聞いた知人の父親の実話を基にしている。対象は全年代、子供から老人まで特定しない。物語を発想した時、50代の私には77歳の父親の心情を描けなかった。今、彼と同じ77歳。ようやく老いを描写できるようになった。

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概要・・初めての夏休みを迎えた小学一年生と、軽度の認知症が始まったおじいちゃんとの間に起きた不思議な出来事。どんなに大切なものでも、いつかは終りをむかえる。終わりは新たな始まりでもある。おじいちゃんと山の動物たちとの、ほのぼのとした交流によって「終わること」「死ぬこと」の意味を少年は学んだ。

描き始めた20年前に母の介護を始めた・・このブログを書く8年前だ。絵は彩色していたが、介護の合間に描くには画材の支度と後片付けに時間を取られた。それで途中から、鉛筆画に変えた。鉛筆画なら、介護の合間に気楽に描けた。さらに、水墨画に通じる味わいもあり、意外にもカラーページより読者に評価されている。それはモノクローム表示端末で正確に表現される利点がある。

Ma_3

 

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Goof

 

Mas

 

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