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2014年6月12日 (木)

アクセスできなくなった人民日報に思う中国に監視されているネット上の日本人。雨の日の憂鬱の解消。14年6月12日

毎日、人民日報の日本語版を読んでいたが、先日から突然に全くアクセスできなくなった。日本語版だけでなく本国の人民日報を始め、関連サイトは総てアクセス不能だ。しかし、Google経由の人民日報のGoogle翻訳記事だけは、ほぼ総てを読むことが出来るので、重要記事は今も読んでいる。

日本語版にアクセスできた頃は、記事を元に中国批判の記事を書いていた。内容は冷静に、ヘイト記事にならないように気をつけていたが、中国政府には不愉快な内容だったはずだ。想像を逞しくすれば、的を得た批判が気に入らなくて人民日報がアクセスをブロックした、とも考えられる。もし、影響力のない一小市民である私に、中国政府の機関誌がブロックをかけたとすれば、あまりにも器が小さい。

もう一つの推測は、人民日報の日本語版の改正があって一時的にアクセスできなくなったことだ。しかし、大元の人民日報にアクセスできないし、工事中や新しいリンク先の表示が出ないので意図的なものだろう。

先日、人民日報が安倍首相を犯罪者のように「安倍」と呼び捨てにするのは礼儀知らずとブログに書いた。どんなに嫌いでも、それは国家間の礼儀を失した行為だ。その件の記入の後、「安倍氏」と最低限の尊称を付けるように日本語版は変わった。私のブログに応えたからとは思っていないが、「安倍氏」表記に変えてからすぐにアクセスが出来なくなったので、ついつい結びつけて考えてしまう。
--中国追従の韓国中央日報の表記も「安倍」と呼び捨てだったが、人民日報に連動して「安倍氏」に変わった。

私は漢字も中華料理も、孔子、孟子、老子、孫子、などの思想家、歴史物、漢詩、陶器磁器と古い中国文化はどれも好きで敬意を払っている。個人的に出会った中国人にも親しみを感じている。しかし、現代中国の身勝手な侵略政策と日本非難と自国民や少数民族への酷い弾圧にはあきれ果てている。そして、人民日報も政府もマスコミも学者も、全員が寸分違わず金太郎飴みたいに同じ論調なのは実に気持ちが悪い。

それらに関連して、米国在住の友人がブログに日中問題を記入できないと話していた。在米華人団体が日本語記入を監視していて、尖閣・南京・慰安婦問題などを書き込むと、直ぐに嫌がらせを受ける。彼らは漢字の拾い読みで大まかな内容が理解できるからだ。そのような監視を専門にしている中国人は膨大で、私のブログを含め、日本発のサイトは総て監視下にあると考えたが良い。

人民日報日本語版 j.people.com.cn/
本国の人民日報  www.people.com.cn/
上記のURLは共に公式なものだが私はアクセスできない。しかし、他所のパソコンでアクセスできることを確認した。

人民日報日本語版を様々試して j1.people.com.cn/ と j の後に 1 を入れるとアクセスすることが分かった。だが、そのページからの関係ページへのリンクのURLはどれも j.people.com.cn/と表示されるのでアクセスできない。ちなみに j1 は正統なものではない。面倒だが、関連ページのURL総てに1を加えれば、総てを見ることが出来る。

本国の人民日報の公式URL www.people.com.cn/ はアクセスできないままだ。
URL文字列後尾の .cn は中国のサイトを意味する。

国家がネットで国民や他国を監視するのは世界の常識で、あらためて書くほどのことではない。ただし、現実にそれが可能な国は、中国と北朝鮮に米国くらいだろう。中国が人海戦術で対処しているのに対し、米国は専用の監視ソフトを供えた大型コンピューターを用いている。


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桜並木の古木。苔むした風貌が素晴らしい。

雨の日が続く。散歩に出ても、のんびりお茶を飲んでいたベンチは使えないのが辛い。帰るまでには靴もズボンもびしょ濡れになる。そんなことで気が晴れず憂鬱な日々だ。

先日記載した「新グーが来た」の第三話はそのような憂鬱な思いから書いた。

・・・信号灯や家の明かりが雨ににじみ、お花畑のようだった。濡れた草木は 疲れた目に みずみずしく映った。
「今まで、どうして雨景色のすばらしさに気づかなかったのだろう。もしかすると、私自身が自分を 辛くしていたのかもしれない」
彼女は電車を待つことを止めて、気ままに歩き始めた・・・

自分の文を思い返していると次第に気分が晴れた。

「今日1日だけは間違いなく幸せだ。今日寝る場所がない訳でもなく、夕食も用意してある」

本当は、それ以上何も望むことはないはずの幸せな1日だった。明日のことは明日考えれば良い。今日一日をしっかりと生きればその先に希望が生まれる。雨の中を歩きながら、そんなことを考えていた。

緑道公園の陸橋の下で熱いお茶を飲んだ。
「ああ美味しい」
感嘆すると、母を車椅子散歩させている頃、そこで雨宿りしながら母とお茶を飲んだ記憶が蘇った。その時、5年後か10年後に「ああ美味しい」と一人でお茶を飲んでいるかもしれない、と私は想像していた。そしてそれは現実になった。


M_

昔の絵。雨の日。

先週の深夜、Eテレで1990年代の高校生のディベート番組「青春トーク&トーク」のアンコール放送を見た。当時と今の若者たちの大きな違いは、女子高生たちがスッピンで化粧気がまるでなかったことだ。もし、今の若者が彼らを見たら外国人と思うだろう。

もう一つは当時の若者たちの元気の良さだ。それはバブル期だったからかもしれない。みんな大声で、自分の意見をしっかりと主張していた。
「フリーターは進路になりうるか」のテーマでのディベートのやり取りは辛辣だった。
「将来、生活に窮したらどうしますか。フリーターでは必ず破綻しますよ」
きちんと就職すべきと考える若者たちは激しく主張していた。
「自由のために組織には属しません。自分たちは企業家、画家、役者、歌手と夢があります」
フリーター容認派は彼らに猛反論していた。

それから25年が過ぎて、今、彼らは40代半ばだ。今の我々は、両派ともに考えが外れたことを知っている。大組織に属しても安泰ではなく、多くの者たちがリストラされて辞めて行った。そして、フリーターたちの夢は実現せず、やがて生活に窮し、正社員を夢見るようになった。

高校生は自分専用の電話機を持ってよいか」
このテーマの時は、小学生でも携帯を持つ時代が来るとは夢にも思っていなかったはずだ。その時代の若者たちの議論ののどかさが、とても可笑しかった。

いずれにしても、今の若者たちが大きく変わったのは自己主張せず、議論をしなくなったことだ。


S_3落ちていた梅の実。

これは酸っぱいが、緑道公園に大量に落ちていたプラムの傷んでいないのを拾って食べると、とても美味かった。

お昼の番組で億劫-おっくう-の劫の意味を解説していた。
大乗仏教の教典にきわめて長い時間のたとえとして次のように書いてある。

1辺20kmの岩に100年に1度天女が舞い降りて羽衣で軽くなでる。それが果てしなく続いて、岩がすり切れてなくなってしまう。その気が遠くなる程の時間を劫と言う。

このたとえは落語「寿限無」の「五劫のすり切れ」にも登場する。

億劫は劫の1億倍の長さで、おっくうになった。それを現代の時間に換算した人がいて、それによると3000億年くらいの長さだ。

S_1大輪のアジサイ。

断捨離で古いレーコドの処分を始めた。70年代の輸入版の環境音楽が70枚程有る。ゴミにするのがもったいないくて億劫なので、レコード買い取り業者に電話をした。

それで今日、着払いで送ってくれと段ボール箱が送られて来た。最近、中古品の売買は厳しく身分証明書が必要だ。

今日の散歩で住民票を取りに行くと、北区の出張所では3人の職員がすることがなく暇そうにしていた。それでも、平均以上の給与と年金とは羨ましい。

帰宅して梱包すると重量は20キロを越えた。業者の話では、私のレコードの中でブライアン・イーノの環境音楽は良い値がつきそうだ。時間をかけて集めたレコードなので、ゴミとして捨てないで済み、ほっとしている。


2020年東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場がもめている。コンペで優勝したイラクの建築家、ザハ・ハディド氏の設計では大雪に耐えられない。それで、流麗なデザインから、建設費の安いカイガラムシみたいな情けないデザインに変わった。それでも、元の国立競技場の取り壊し費用も重なり、予算内では上がりそうにない。

予算の問題以外にも、ハディド氏の案では神宮外苑の景観が悪くなると建築家たちが反対している。他にも建て替えではない改修なら現行計画の半分以下で済むとの反対意見がある。こんなことなら、他のデザインを選ぶべきだったかもしれない。

コンペ最終選考に残ったポピュラス(ロッド・シアード:イギリス)の作品は自然にとけ込んでいて目に優しく、岩山へ分け入って行くような感じがとても良い。

同じく最終選考に残ったUNS Studio(オランダ)の作品はシンプルだが、天井の透明感がとても良く、観客席の雰囲気もいい。

私的には最終選考に残ったツヨシ・タネ(フランス)の作品が最高だと思っている。外観は人口の山で、緑に覆われた古墳の感じだ。もしこれが採用されていたら、神宮外苑の雰囲気が素晴らしく変化していただろう。観客席もすっきりしていて観戦に集中できそうだ。

コンペ3位のSANAAの作品は流麗で軽やかで魅力的だが、ザハ案と同様に強度が問題になる。


Ma_3

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Goof

Mas

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