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2014年6月16日 (月)

公園のベンチに腰掛け、さわやかな風を感じていると、ホームレスの至福の気持ちが分かる。14年6月16日

爽やかな、好天の6月が続く。陽射しは強いが、乾いた風が夏の北海道のようにさわやかだ。
いつものベンチで休んでいると、ムクドリの親子が芝生で餌あさりしていた。親と大きさが変わらない子供が「ギュルギュル」と、餌をねだっているのが可笑しい。スズメも多い。芝生で虫を見つけて、嬉しそうに巣へ持ち帰る姿がけなげで可愛い。

のどかな姿だけではない。時折、鳩がカラスに襲われている姿を目撃する。昨日は茂みの中でカラスが鳩の羽毛の中を漁っていた。このような獰猛な姿を見ると、カラスは猛禽類に近い。残酷だがこれも自然の姿だ。自然界では人のように老衰で死ぬ動物はいない。軽い病でも体力が落ちれば、すぐに猛禽や肉食獣に補食される。


S_2ベランダの多肉植物のプラエアルツムの鉢にネジ花が咲いていた。

種を知らずに持ち込んでいたようだ。

雑草のように日当りの良い芝生に普通に見られるラン科の花だが、鉢で育てるのはとても難しいと言われている。


散歩から帰るとすぐに洗濯をする。

一人暮らしなので量は少なく、日当りの良いベランダ脇の棚に吊るして部屋干しにする。

その脇に亡き母の椅子がある。生前は洗濯物を持って行くと母は気遣っていた。

「干すのに邪魔だね。どこうか」
今も、洗濯物を干しに行くと母の言葉がよみがえる。

「死んだんだから、邪魔じゃないよ」
いつも、心の中で応える。

「あら、私、死んでるの。ちっとも気づかなかった」
驚いたような陽気な母の声が聞こえ、すぐに喪失感が募る。母が邪魔にならなくなったのは楽だけど寂しい。


散歩道で統合失調症の元内科医のYさんと会った。彼は悩みがあると、ベンチで私が通るのを待つている。

「最近、深く考え事をすることができなくなったんです。考える能力がなくなったのかな・・・」
考える事がないことが、却って心許ない様子だ。

「先行きに不安が生まれれば、嫌でも考えますよ」
追い込まれた生活の解決方法をいつも考えている自分を例にして話した。

「なるほど、そんなものですか」
彼は否定はしなかったが納得できない様子だ。彼は私にとって試薬みたいな存在だ。会話はいつも、彼の疑問に私が応える形だが、実際は彼の質問は私にも共通で、そのことを考えることで自分の問題を解決している。


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御諏訪神社脇の崖上へ行く階段。
青空が爽やかだった。

私も最近何も考えなくなった。そして、限りなくホームレスの気分になって、ベンチにぼんやり腰掛けていることが多い。殊に、爽やかな日が続くので、涼風を感じながらぼんやりしているのは格別に心地よい。

何も考えずにぼんやりしている時間は幸せだ。この数年、とことん生活に追われている内に諦観が身に付いて、何も考えずにぼんやり出来るようになった。

昔は、ホームレスがぼんやりベンチに腰掛けているのは、何か良いことがやって来るのを待っている姿で、介護施設で、ぼんやり外を眺めている老人たちは死ぬのを待っている姿だとネガティブに見ていた。

それは偏った見方だ。彼らはただ何も考えず、過ぎて行く時間を感じていただけのようだ。それは満ち足りた無我の境地に近い。


Fc

昔の絵。工場。

最近心に残ったのは「花子とアン」の修造じいさんの死だ。家族が出かけて行った後、奥の部屋に一人静かに座っている姿。縁側から初雪を見上げながら、死ぬ時期が来た、とつぶやいた姿。それらの、凛とした静謐な姿がとても心に残った。

もし母が生きていたら、その姿に、母を溺愛していた甚兵衛じいさんのことを思い出したはずだ。

「死が間近の頃、甚兵衛さんはいつも縁側にあぐらをかいて、静かに庭を眺めていた」
母の車椅子を押していた頃、甚兵衛じいさんの死ぬ寸前の姿を母は何度も話していた。だから、修造じいさんの姿に甚兵衛じいさんが重なった。

甚兵衛じいさんは無口で誠実で頑強な人だった。85歳の死まで歯が全部揃っていて、母が好物の肉を買って来ると言うと「固い所を選んで来てくれんの」と頼んでいた。

母の父親は久留米藩の重臣の家系だったが、親の反対を押し切って染物屋の娘である母の実母と結婚して勘当された。母の実母は母を生んで間もなく早世してしまった。まだ幼い母の養育に困り果てた実父は、子供がなかった甚兵衛じいさんの娘、私たちが祖母と呼んでいた人の元へ養女に出した。

「若い頃、突然に子供のように哀しくなって、しゃくりあげることがあったけど、どうしてだろう」
後年母は、不思議な感情だと話していた。それは赤ん坊だった母を可愛がっていた実姉との別れの哀しみによるものだったと、私は想っている。

甚兵衛じいさんの家は極めて奇妙だった。養母である祖母は明治の女なのに、生まれてから一度も、料理、洗濯、裁縫をしたことがなかった。母に料理を教えたのは甚兵衛じいさんで、母に手芸を教えたのは養父だ。養父は芝居小屋で書き割りを描いたり小道具を作るのが好きで、母が芝居小屋へ遊びに行くと、姉様人形作りや、編み物などの手芸を教えてくれた。

甚兵衛じいさんは西郷さんに従って鹿児島の城山に籠ったほどに血の気が多い男で、養父は侠客と付き合いのある屈強な男だった。その強い男たちと、料理・手芸好きとの対比が面白い。この世間体を気にしない奇妙な家風が、私を絵描きへ向かわせる原動力になったと思っている。

この二人は無類の酒好きで、同じ飲み屋でよく飲んでいた。子供だった母もくっついて行くことが多かったが、母は二人が話している姿を見たことがない。話すことがあると、間に座った子供だった母が通訳のように二人に伝えていた。舅と婿がまったく会話しないのも、「花子とアン」の修造じいさんと父親吉平の関係に似ている。


最近、気の合った友人たちと集まることが殆どなくなった。
若い頃は毎週のように、誰かの狭いアパートに集まって、飲んで、食べて、バカ話をしながら徹夜をし、2,3時間寝た翌日は街へ繰り出し、目一杯遊んでいた。

今思うと内容などまったくなかった青春だが、それがとても楽しかった。しかし、そんな仲間は年々減って、今は数える程しか残っていない。

そのように騒いで楽しむことがなくなくなった代わりに、ぼんやりと静かに過ごす喜びを知った。人生は実に巧く出来ている。

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