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2014年6月 8日 (日)

年々時間は速度を増し、「花子とアン」や記憶への郷愁は現実から離れ心の底へ沈殿して行く。14年6月8日

連続テレビ小説「花子とアン」に、蓮子が後妻として嫁いだ嘉納伝助 (吉田鋼太郎) が時折登場する。嘉納伝助のモデルは北九州の伝説の炭坑王・伊藤伝右衛門だ。彼の川筋もんの雰囲気は懐かしい。

ドラマでは無学な成り上がり者として彼は描かれているが、地元での評判は良かった。母の思い出にも彼の逸話が度々登場した。蓮子のモデル柳原白蓮のために建てた焼失前の豪壮な銅御殿の話もよく聞いた。彼は気は荒いが男気を大切にする川筋もんで、気っぷは良かったようだ。むしろ「花子とアン」の西洋かぶれの蓮子のほうに、成り上がりの高慢さを感じる。もっともドラマなので、これから良い展開はあると思っているが・・・川筋もんとは炭坑地帯の遠賀川川筋の川筋者が訛ったもの。

ドラマ中の蓮子は西洋音楽に心酔し、しばしば嘉納伝助邸で室内楽とパーティーを催した。しかし、当時の日本の西洋音楽や舞踊の水準は稚拙で、現代の高校生以下だったはずだ。比べて、嘉納伝助が入り浸った花街での日本舞踊や三味線などの邦楽は遥かに成熟し完成度は高かった。もし、現代日本人が見たら、蓮子主催のパーティーはかなり恥ずかしいものだっただろう。

後年、柳原白蓮が愛人の元へ走った時、伊藤伝右衛門は、連れ戻すと激高する部下たちを「追うな、好きにさせろ」と押さえた。そのような男たちは、五木寛之の「青春の門」や火野葦平の「花と竜」にもしばしば登場する。

先日「花子とアン」の父親役の伊原剛志が「スタジオパークからこんにち」のゲスト出演した。彼が人から聞いた話が面白かった。それは、年代によって感じる時間のスピードは、時速その人の歳キロ、と言うものだ。例えば20歳の時間は時速20キロとノロノロ進む。80歳なら時速80キロと猛スピードで過ぎるだ。だから、80歳の老人の時間のスビードは20歳の若者の4倍早いことになる。

似た話で一生の心拍数がある。生物一生の心拍数の総計は、どの動物もほぼ同じと言うものだ。例えば短命な小動物の心拍は小刻みで猛烈に早く、長命な象などの心拍数はとても遅い。心拍数を時間の速度に置き換えると、短命な小鳥などの1日はとてもゆっくり過ぎていて、我々の1ヶ月に相当する。だから、主観的には生きる長さは変わらない。

年代によって時間の速度が違うとすると、若者が眺めている高速道路の車のスピードはノロノロ遅くて、老人が眺めている車は猛スピードで走り回っていることになる。だから、若者はノロノロ運転がじれったくて、スピードを出したがるのかもしれない。


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雨に濡れたアジサイ。

毎日、13階まで階段を上って帰る。体調が良い時は13階に気づかず、最上階の14階まで行ってしまう。体調が悪いと、7,8階から「あと何階だろう」と数え始める。その苦しい感覚にはいつもデジャブ感がある。

「階段を上るのは苦しいけど、10分後には部屋でくつろいでいる。苦しい時間が一瞬で過ぎるように、10年後も20年後も一瞬で訪れているのだろう」
17年前、この住まいに引っ越して来て直ぐの頃も、そう思いながら階段を上っていた。今の時間は本当に速く過ぎる。この分では10年どころか20年も一瞬で過ぎて、気がついたら死の床にいそうだ。


ものを捨て始めてから、住まいへの愛着が薄くなった。外出から帰宅する時、我が家へ帰る感覚は薄い。むしろ、心の中の過去の情景に自分の居所を感じる。

そのような心の故郷は昭和40年代あたりまでの光景だ。商店街に活気があって、誠実そうな年寄りが夫婦でやっている店があちこちにあった。八百屋、下駄屋、衣料品店、今思うと店主は50代辺りで、老人に見えたが今の私より一回りは若かった。


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雨に濡れたセイヨウキンシバイ。

夕暮れの散歩から帰宅すると、Eテレ番組「ららら・クラシック・いとしさと切なさと--ドボルザークの“新世界から”」の終わり辺りだった。

今回のテーマは音階の四つ目の「シ」と七つ目の「ファ」を使わないヨナ抜き音階についてだ。日本の音階と言われているが、西洋音楽にも多い。スコットランド民謡がそうで代表曲は「蛍の光」。ゴスペルの「アメージングレース」もそうだ。交響曲ではドボルザークの「新世界」などがある。ドボルザークは滞在した米国のゴスペルと故郷ボヘミアの影響を受けて「新世界」を作曲した。このヨナ抜き音階も心の故郷のような懐かしさを感じる。

10代を過ごした宮崎市のデパート山形屋では、朝夕二度、ドボルザークの「新世界」を流していた。だから、この曲を聴くとその昭和30年代が蘇る。今の住まいでは午後6時になると川向こうの公園で「夕焼け小焼け」が流れる。母が在宅で死ぬ30分前に流れていたので、今はとても切ない曲になった。


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散歩道で摘んだビワとクサギの新芽。
クサギはガスのような匂いがするが、悪臭ではない。この新芽を食べる地方は多いが、今の時期になると苦みが強くなる。この新芽も口が曲がる程に苦かった。重曹などで灰汁抜きすれば苦みは消える。南九州では夏バテに効くと言われているので、この苦みに薬効があるのかもしれない。

ビワは市販品より甘みも酸味も香りも濃厚だった。雨傘の柄で引き寄せ、熟しているのを選んで摘んだ。


S_2ヤマモモが早くも熟し始めた。今年は好天が続いたので例年より甘い。

ジューンベリーも熟し始めているが、菌に感染したようで、熟す前にしなびて総て落ちてしまった。

先日、NHKの生活番組で野菜を新鮮に保たせ方をやっていた。葉もの野菜は買い物から帰宅したら直ぐに5分間ほど水に漬ける。それだけで1週間はみずみずしさを保ってくれる。

ショウガや夏野菜のトマト、ナス、サツマイモなどは暖かいのが好きなので冷蔵庫へ入れると凍傷を起こすので、常温保管が良い。

5月の暑い日、ゴーヤを買ってリュックから出すのを忘れていた。リュックは地面に腰を下ろす時に尻に敷くので、2,3回はゴーヤに体重を乗せた。尻に固いものが当たっているのは知っていたが、持ち歩いている折り畳み傘だと思って気にしなかった。

先日気がついて出してみると、ゴーヤはとても元気で、どこも傷んでいなかった。ゴーヤは暑いのが好きなので、元気だったのだろう。

番組を見ながら、桐ヶ丘都営住宅の母親と息子がやっていた八百屋を思い出した。その店では夏になると、大きな木の樽に水を張って葉もの野菜が漬けてあった。若い後継者に老いた母親が野菜の知識を伝えている姿を時折見かけた。番組で教えていた野菜保管の知識は、その店で知ったものばかりだった。

その八百屋は20年以上昔に倒産し、跡地は今もシャッターが閉まったままだ。老いた母親はすでに亡くなっているかもしれない。散歩していると、ふーっと、昔の商店街の情景が蘇る。しかし、その場所へ行ってもシャッターが閉まっているか、取り壊されて空き地になっている。


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昔の絵。「バレリーナ」


先月、iTunes store からSF映画、異星人スカブから地球が侵略される話の「オブリビオン--Oblivion・忘却」2013年制作、を借りた。

人類は異星人スカブとの戦いに勝利したが、壊滅した地球を捨て、土星の衛星タイタンへ移住するストーリーだ。

荒廃した地球にはスカブが住み着き、執拗に人類にゲリラ攻撃を仕掛ける。地球の海には核融合炉の燃料の重水を採取する重要施設が残されている。それらの施設を守る無人攻撃機のメンテナンスをしているのが、地球に二人だけ残されている若い夫婦、ジャック(トム・クルーズ)とヴィクトリア(アンドレア・ライズボロー)だった。重要な話の逆転があるので詳しくは書かないが、「月に囚われた男」と共通の深い哲学性のある映画だった。

心に残っているのはジャックが生きていた本当の妻と出会ったシーンだ。荒廃した地上の一角に、取り残されたように自然に囲まれた湖があった。湖畔には廃屋のような小屋があり、20世紀末の思い出が残されていた。

記憶を取り戻した二人が、そこで交わした言葉が良かった。

・・・湖畔に家を建てて、一緒に年をとり、太って、ケンカして、お酒は度を越す。
やがて死を迎えて、湖畔の草原に埋められ忘れられる。でも、僕らの愛は永遠だ・・・

正確ではないが、そんな台詞だった。作者が言いたかったのはこの台詞かもしれない。「そして忘れられる」の箇所が殊に良い。「僕らの愛は永遠だ」と矛盾しているが、とても人間的だ。

映画の筋を少しばらすと、侵略した異星人は生物ではなくコンピューターだった。永遠と忘却を同次元で理解できる人類の思考はコンピューターには理解し難く、それによって強大で無敵のコンピューターは人類に敗北した。

コンピューターより人が優れているのは失敗することだ。巧くプログラミングすれば失敗も真似られるかもしれないが、人の間違いは複雑過ぎて真似るのは難しい。

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Goof

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